キリンビールに勤務しながら、漫画家デビュー

──企業に就職されたのは理由があったのですか?

やっぱり食っていかなきゃならないっていう気持ちがあったんです。大学時代に、『ビッグコミック』(小学館)と『ガロ』(青林堂)に投稿したのですが、両方とも入選しなかった。それならと、好きな漫画に加えて広告制作もやろうと思ったんです

──それからどのような経緯で漫画家になったのですか?

「JICC出版局(現在の宝島社)の人が、僕の同人誌を見てくれて声をかけてきたんです。当時は、大学生とか半分素人みたいな人がもてはやされた。そのときに描いていたのが『流星課長』(1996年)。今と全然変わってないな~

──漫画家デビューするとき、会社には副業届などの提出は必要なかったのですか?

上司に“休みの日に漫画を描いています”と言ったら、“俺たちがゴルフをやるようなものだからいいよ”って言ってくれたんです。でもゴルフはお金を使うのに、漫画はお金が入ってくるから違うのになって、内心思っていました(笑)」

──サラリーマン時代は、風通しのいい社風だったのでしょうか。

「僕の周りはいい人だらけで働きやすかったです。バブル景気のピークが'87年から'89年と言われているのですが、僕が入社したのが'81年だから社内的には景気はよかったんでしょうね。でもね、メーカーって全然、お給料が上がらないんだよね(笑)。一緒に仕事をしていた広告代理店はお金を持っていたんだろうな~って思うけれど」

──会社員時代はパッケージデザインや広告宣伝などを担当されていたそうですが、振り返ると楽しかったですか?

新商品を作るのは面白かったね。あのころはビール戦争なんていって業界の注目度も高くて、当時は新商品出すだけで“あのメーカーがこういう商品を出した”って話題になっていたから。裏方もやりがいがあった。僕が参加していた『ハートランドビール』('86年発売)のプロジェクトチームは、超優秀な女性社員や、前田仁さん(元キリンビバレッジ代表取締役社長)らで編成されていた。きっと“チームにもう1人入れるなら、変なやつがいい”ってなって、そこで僕が選ばれたんじゃないかな

しりあがりさんがパッケージデザインを担当した「ハートランドビール」の発売当時のビン 撮影/矢島泰輔

「『一番搾り』('90年発売)のチームにも入れてもらっていて、『東京コピーライターズクラブ』でネーミング賞をもらったときに、僕が代表で授与されて今も自宅にトロフィーが置いてある。会社のものなのにヒドいよね(笑)」

しりあがり寿さん 撮影/矢島泰輔

仕事が二つあると、気持ちのうえで楽だった

──サラリーマンは何年間、続けられましたか?

会社勤めは13年続けました。漫画も会社員も両方とも楽しかったんですよね。あと仕事がふたつあると、片方でうまくいかなくても、もう片方があるからいいかなって、気持ちのうえで楽になった。でも管理職になる年齢になってきて、これは無理だなって思いました。だって、たまたま自分とあわない部下が来たらどうしようとか(笑)。部下が失敗したらどうやって叱ればいいのとか。あと楽しい現場の仕事を離れたくなかったし」

──会社員と漫画家は、どのように兼業していましたか?

会社で仕事終わってから飲みに行くでしょ。それから帰って漫画を描いていた。ものすごくヘタな原稿なのだけれど、編集さんが受け取ってくれたんだよね(笑)。当時は、仕事の昼休みに原宿まで編集さんに原稿を取りに来てもらっていて。待ち合わせ場所はいろいろな出版社の人が来るスペイン料理の店だったけれど、そこのカジョスライスが好きだったの。マガジンハウスの編集さんにはよくご飯をおごってもらってたけど、青林工藝舎の編集さんには遠慮してたかも(笑)」

──会社員をしながらの連載漫画は、原稿を落としてしまうかも……という不安はなかったですか?

原稿は絶対に落とさなかった。時間がとれなくてヘタだし、面白くない話はあったと思う。でも、漫画を描くために仕事を休んだら、会社からの信用がなくなる。だから絶対に会社を優先しますって、会社にも編集にも伝えていた。僕は、漫画のために有給も使ったことはなかったんです

仕事場に飾られている原画 撮影/矢島泰輔