河合奈保子、三原じゅん子との学校生活が唯一の息抜き
──デビューした年の同期は「花の82年組」と呼ばれ中森明菜、小泉今日子、シブがき隊、早見優、石川秀美、松本伊代、三田寛子など錚々(そうそう)たる顔ぶれですね。
すごいメンバーですよね(笑)。でも、僕はもともと芸能界への憧れがなくて、まさかこの道へ進むとは思ってもみなかったんです。父がトランペッターなので、小さいころから仕事についていっては、いつも華やかな現場を見ていました。もちろん父の影響もあって音楽は大好きでしたけど、小学生のときに描いていた将来は、体育の先生か警察官。白バイに乗って、交通機動隊になりたいと考えていたんですよね。
それが、中学3年生のときだったかな。なぜか『君こそスターだ!』に出ることになったんです。当時は『スター誕生』と『君こそスターだ!』の2大オーディション番組があって、『君こそスターだ!』の司会はジャニーズ事務所の、おりも政夫さんでした。3回勝ち進むとグランドチャンピオン大会だったのですが、その最中に、ジャニーズ事務所さんからお声がけをいただいて。「お父さん、お母さん、純一くんをウチで預からせていただけませんか?」と。それも、学園ドラマで3人トリオをデビューさせたい、そのうちの1人になってほしいというんです。後から考えたら、それが『たのきんトリオ』ですよ。当時の僕は近藤真彦さんに似ていると言われていて、もしあのとき“たのきん”に入っていたら、マッチさんじゃなくて僕だったのかな、なんて(笑)。
実際には違う芸能事務所に入ることになり、『レッツゴーヤング』という番組でデビュー。そこからは激しい新人賞レースに突入です。今、考えても何も思い出せないくらい忙しかったですね。
──当時を振り返っても何も覚えていないほど多忙、というのは本当の話だと聞きます。コンプライアンスもない、労働時間も年齢も関係ない。昭和のアイドルは、今の時代からは想像できないほどの労働環境だったとか。
テレビ出演に加え、夜中にレコーディングして、さらには振付のレッスンもあって、雑誌の取材も。地方へ行って戻ってきたら夜中にまたレコーディング。そしてドラマ撮影もあれば学校もありました。この繰り返しで、いつ寝ていたかも覚えていません。ホント、よくこなしていたなと思います。とにかく、すべて自分で選択できる自由はないんです。曲もドラマも衣装も含め、こうしたいという希望を口に出そうにも……。
先ほどお話ししたように、当時の僕はマッチさんに似ていると言われていたので、事務所は僕とマッチさんと差別化を図っていて、やんちゃな感じとはちょっと違う、可愛らしいイメージづくりをしていました。でも僕的にはイヤで(笑)。年ごろですから、男らしくしたいじゃないですか!
と言ってもそんなことは叶(かな)わず、結局、学校だけが息抜きの場になっていました。高校には同じアイドルの河合奈保子ちゃんとか、三原順子(現・三原じゅん子)さん、ほかにもジャニーズの子なんかもいたりして、学校で話しているときが唯一ホッとする時間。学校ってなんて楽しいところなんだと。