まさかの『替え歌バトル』で撃沈、翌年も予想外すぎる問題が出て──

──悲願の全国大会での思い出はありますか?

「まずは、東京に行ける! という喜びが大きかったですね。クイズの勉強は中学からしていたので、絶対に優勝するつもりで上京しました。東京駅には、全国から49チームが集結していて、胸が熱くなりましたね。ただ、僕たちは全国大会の1回戦で何をするのか知らされないまま、バスで新宿の京王プラザホテルに連れて行かれたんです。その1回戦は“ディナーショー・クイズ”ということで、僕たちがディナーショーの主役となる『替え歌バトル』で競いました

──覚えていますよ! ビートたけしさんの事故をもじった替え歌がありましたよね。

「“(『北酒場』のメロディーで)北野〜武の〜無事祈る~”(笑)。僕は放送でカットされた曲を含めてだいたい覚えているんですが、あの49曲の替え歌を思い出すと、'94年の世相が思い出せるんです。村山富市が総理だったこと、猛暑で水不足だったこと、梅宮アンナと羽賀研二が世間を騒がせていたこと(笑)など」

──確か、作詞テーマは自由で、楽曲に対して即興で歌詞を作るものでしたよね。

「はい。僕らの課題曲は、とんねるずの『一番偉い人へ』でした。曲のジャンルは抽選で決まったのですが、僕たちは“J-POP”に選ばれました。他のチームは“民謡”や“アニソン”になって嫌がっているチームもいて、3人で“ラッキー!”と思っていたんですが、ツイていないのは僕たちだった。演歌や民謡は歌詞の文字数が少ないんですが、J-POPは歌詞が長いし、言葉の数も多くて、とにかく30分では作詞できなかったんです

──どのようにして勝敗が決まったのでしょうか。

「全チームが替え歌を作り終えて提出した後に、ようやく福澤朗さんがルールを発表しました。簡単にいうと、替え歌の歌詞の中に『ある言葉』が入っていたら失格、というものでした。その言葉を“阻止ワード”というんですが、作詞を終えた後に、49チームが(他のチームが替え歌の歌詞に使っていそうな)阻止ワードを書いて提出したんです。僕たち3人は“夢/青春/ファイヤー”って書いたのかな。

 そして、1チームずつ前方のステージに立って替え歌を披露して、最後まで阻止されずに歌い切ったら勝ち抜け、即2回戦進出。途中で阻止ワードが入っていたら照明が落ちて失格、というルールでした。正直、どこがクイズなんだろう……って思ったんですけど(苦笑)。僕たちのチームが作った歌には、“クイズ”、“憧れ”、“高校”などなど、阻止されそうなワードがてんこ盛りで(笑)。案の定、Aメロの序盤、“クイズ”というワードに阻止されて、敗退しました。クイズの実力を発揮する前に落ちてしまったんです

──それは悔しかったですね。

「“北高100周年”というタイトルで、なかなか感動する歌詞だったんですけどね(笑)。少し石橋貴明さんと木梨(憲武)さんのマネを加えて歌いました。あのときは審査員として、小林亜星さんと清水ミチコさんがいらしていたのですが、亜星さんからは“君、歌がうまいね~”って褒めてもらえたんです。清水さんからは、最後まで聞きたかった~。将来、モノマネを仕事にしたらどうですか”って言われたんですよ(笑)」

──日高さんは『ものまね王座決定戦』が大好きで、分析などもしていますから、今のお仕事ともつながりますね。

「そうなんですよ。替え歌を作っているときに、清水さんが各テーブルを回ってくださっていて。そのときに“(バラエティ番組の)『夢で逢えたら』に出られていたころから大ファンなんです”って伝えたら、ハグしてくださった。だから清水ミチコさんが、僕が初めて抱き合った芸能人なんです(笑)。放送ではカットされたのですが、清水ミチコさんが“ディナーショーの極意とは何かを教える”という設定で、僕たち高校生のためだけに40分くらい“ものまねライブ”をやってくれたんです。当時は新ネタだったドリカムとユーミン(松任谷由実)の作曲法のものまねとかもしてくれて、“えっ、ここまでやってくれるの!”って感激しましたね。それで、先のモノマネの話につながるんです」

──『高校生クイズ』ではそのまま、1回戦で敗退を喫したのですか。

「はい。その後、敗者復活戦のYES・NOクイズがあって、ギリギリまで粘ったんですがラスト1問で負けてしまいました。その日の東京の夜はもちろん、1週間は悔しくて眠れませんでしたね(笑)​

──学校での反応はどうでしたか?

「当時は、決勝まで残ると、高校と決勝地を中継でつなぐ演出があったんです。だから僕らが全国大会に出ることは全校生徒に通知してあったんですね。決勝の日程と、ロケ場所を押さえる関係もあって。そんな中で無残な敗退をしてしまったので、新学期の9月1日が来るのが嫌でしたね。あまりにショックで、2学期の数学のテストが100点満点中3点だったのを覚えています。学年で最下位でした

──そこから翌年も、高校生クイズに挑戦しましたか?

「もう、リベンジに燃えていましたね。毎日クイズの勉強をして、自分たちが勝ち上がった中部大会のビデオを365日繰り返し見ていました。迎えたラストイヤーの予選は、気合い入りまくりでした。1問目は難なくクリア、ところが、2問目のYES・NOクイズで《名誉市民の称号をもつベルギーの『小便小僧』は、両手でオチ○チ○を持っている》っていう問題が出たんです。女の子もいたのに、みんな“こうじゃないかしら”ってジェスチャーでやってるんですよ(笑)。当時はネットもないですし、乏しい映像記憶に頼らざるをえなかった。出題の裏読みもできない。僕らは半ばヤマカンでYESを選んだのですが、答えはNOで、僕らの3年間の青春は終わりました。実際は、片手を腰に当てているんですよね。まさかこんな問題で落ちるとは思わなかったですね(笑)

──『高校生クイズ』の経験は、のちにクイズの仕事に役立ちましたか?

「はい! 人生でたった3度しかないチャンスですが、かけがえのない思い出になっています。卒業してからは後輩の高校生のために『高校生クイズ』の問題作成にも携わりました。そして僕自身、全国大会で負けた悔しさもあったので、クイズの実力を思う存分に発揮できる形式を'08年にみんなで考えて、それは『知の甲子園』として話題になりました。いまQuizKnockで活躍している伊沢くんたちの優勝も見届けましたね。

 そういえば、福澤朗さんが去年『ザ・タイムショック』に初めて出演するときに、僕がクイズ王としてコーチ役で共演したんです。福澤さんが、“かつての教え子にクイズを教わるという、最高に幸せな経験ができたので、日高さんのためにも頑張って恩返しします”ってコメントされたときは、こちらも最高にうれしかったですね

新たな目標は東大合格! 浪人するも「人生の中で楽しかった時期かも」

──『高校生クイズ』が終わってしまってからは、その情熱は何か別のことに向かいましたか?

今でも覚えているのですが、高校にある階段の踊り場で、担任の先生にふと、“僕、東大を目指します”って言ったんです。おそらく、目標が無くなってしまって、何か新たな目標を作りたかったんでしょうね。先生はうれしそうに、“そうか! 絶対行けるから頑張れ!”とおっしゃってくれました。そこから今度はまた、波乱万丈な歳月が始まるんですけれど……(苦笑)」

──学校の成績はどうでしたか?

「よくなかったです(笑)。学年400人の中で、成績はいつも300番台でした。クイズばかりやっていたので、1問1答しか答えられない生徒でした。それでも、それなりに受験勉強をして、成績を上げていって。結果、現役で東大文1を受験したら、見事に落ちてしまいました。でも、センター試験の成績もよく将来有望ということだったのか、浜松にあった予備校の授業料が1年間無料になったんです

──浪人時代は苦労されましたか。

いえ、人生の中でもいちばん楽しかった時期かもしれませんね。だって1年中、朝から晩まで勉強してよかったわけなので。2浪、3浪してもいいかなと思ったくらいです。もともと何かに打ち込むとか、勉強することは好きだったので、浪人はまったく苦にならなかったですね。ただ、結果だけは出そうと思っていました