1時間ほどのアニメ制作に5年もかけた執念
──大学卒業後、アニメーターになられたそうですね。
「アニメーターというか、『コマ撮りアニメ作家』ですね。卒業制作で撮ったストップモーションアニメ(静止した物体を1コマごとに撮影し、あたかも動いているかのように見せる作品)が受賞し、いくつかの映画祭に呼ばれるようになったんです。これをきっかけに『自分にはコマ撮りアニメが向いているんとちゃうか』と思い、アニメ映画『緑玉紳士』(2005年)を制作しました。1コマずつ撮っているので、1時間ほどの作品の完成までに約5年もかかってしまいました」
──1時間ほどの作品の制作に約5年も……執念ですね。
「幼いころから『物を作っていないと死んでしまう』くらい創作が好きだったし、無茶をする性格だったからやれたのでしょう。ちなみに『こまどり』という鳥がいますよね。こまどりは英語でロビンっていうんです。“ロビンやすお”という名前は、こまどり=コマ撮りにあやかっているんです」
──自分の名前にするほどコマ撮りに思い入れがあったのですね。アニメ作家の仕事で食べていけたのですか。
「苦しかったですね。仕事で2分の短いショートフィルムを撮ったり、ミュージックビデオを撮ったりしてしのいでいました。次の企画を立てて制作をするにも時間がかかるので葛藤しているなか、京都造形芸術大学(現:京都芸術大学)から『キャラクターデザイン学科の教壇に立たないか』という依頼があり、2008年から教員に、2011年に准教授になりました」
漫画家になったきっかけは「落雷」
──大学で教鞭を執っていたロビンさんが漫画家になろうと思われたのはどうしてですか。
「雷に打たれたんです」
──え! 雷に?
「はい。大学に籍を置いていたある年の元旦、眠っていると金縛りに遭い、青い稲妻に打たれました」
──「雷に打たれたような衝撃」かと思いきや、本当の落雷ですか。お身体は大丈夫だったのですか。
「はい。雷と言っても、われわれが住む3次元へ落ちたのではなく、4次元よりも上の高次元に落ちた雷です。そのとき僕は幽体離脱をしていたので、視覚が肉体の眼球を通していないため、身体に落ちる雷光がよりはっきりと見えたのです」
──幽体離脱をしていた……その青い稲妻が、どうして漫画家になるきっかけとなったのでしょうか。
「教える立場になると忙しくて作品の制作や表現活動ができなくなってきた。そんな状況が続き、胸の中がずっとモヤモヤしていたんです。そして雷に打たれ、改めて自分が生まれてきた理由に気がついた。『絶対にものづくりをせなあかんのや!』、そう直感したんです。きっと神さんが雷を落とすことで『自分の使命を忘れてへんか?』と伝えてくださったんでしょうね」
──それで、大学の仕事はどうなさったのですか。忙しいままですよね。
「辞めました」
──なんと! 雷に打たれて、お辞めになったのですか!
「『大学を辞めへんかったら、自分がやるべきことをやられへんな』と思って。青い稲妻に打たれた経験は、それくらい大きな出来事だったんです」
アニメーターから漫画家へ転身するも「甘かった」
──かつてアニメ作家だったロビンさんが、一から漫画家を目指したのはどうしてですか。
「漫画を描いた経験はなかったし、実はあまり読んでもいなかった。とはいえ、自分の作風であるコマ撮りアニメは、時間、手間、予算がかかり、作品の完成までが遠い。その点、漫画だと一人で描けるし、もっと短期間に表現できる。メッセージを読者に早く伝えられる。そう考えたんです。アニメを制作するときは先ず絵コンテを描くので、その技術を生かせられれば、漫画も描けるだろうと」
──スサノオくんは漫画でありながらアニメのような躍動感とダイナミックな表現が魅力ですが、漫画はすぐに描けるようになったのですか。
「これが……甘かったですね。アニメと漫画は表現方法がまるで違いました。漫画を描くスキルはかなり特殊なものだとわかったし、むしろアニメの技術が足を引っぱった。アニメにならって、つながって見えるように描いていたら、コマがいくつあっても足りないんです。『漫画って、こんなにコマを間引かなきゃいけないのか』と、かなり戸惑いました。漫画を漫画らしく描けるようになったのは、スサノオくんの連載が始まってからですね」