2007年に熊本市の慈恵病院に設置された、親が養育できない子どもを匿名で託すことができる“赤ちゃんポスト”。熊本日日新聞で記者をしていた森本修代(もりもと・のぶよ)さんは、2015年からこのポストに関わる人々に取材を重ねてきた。その中で、単純に「子どもの命を救うことはいいこと」というだけでは片づけられない実態があることを知った森本さんは、それを伝えるため「本を書こう」と決意し、「小学館ノンフィクション大賞」に応募すべく、筆を執った──。
(森本さんが赤ちゃんポストの担当記者になり、葛藤を抱えつつも取材に精を出した日々については、インタビュー第1弾で語ってもらっています。記事→設置15年を迎えた「赤ちゃんポスト」と向き合い続けた女性記者、取材を重ねるたび大きくなった“疑問”と“葛藤”)
本の発売が決まるも、会社は「出版を認めない」
フルタイムで仕事をしながら、朝5時には起きて原稿を書いた。休日も取材と原稿書きにあてた。その間、家事は同業者の夫が、小学生になった息子たちと一緒にがんばってくれた。
「周りの目など気にせず、自分が書きたいことを書けばよかたい」
と言ってくれた夫には勇気をもらったという。
「なんとか締め切りに間に合わせて応募したら、審査をへて最終選考に残ったんです。会社には報告しました。結果、大賞は逃したけれど本にしてもらえることになった。そのあたりから、雲行きが怪しくなりました。“社論と違う”と言われ、本を出すことを急に渋られたので、“社論って何ですか”と言ったら上司は答えられない。“それは言論統制です、新聞社として絶対にやってはいけないことですよね”と私は訴えました」
そのころの熊本日日新聞の赤ちゃんポストの取材は、森本さんが担当になる前の「命を救うために必要なこと、県の誇り」というスタンスが主流となっていた。
彼女自身は取材を重ねて、匿名で慈恵病院に子どもを預けた母親と出会っていた。福祉関係者が協力してくれたのだ。
「会ってみたら、本当に普通のお母さんだった。若くて経済力もなくて……というイメージを持っていたけれど、私と同じ、ごくごく普通のお母さん。私が彼女の立場にいても不思議ではないと思いました。やはり、実際に人と会うということがいかに大事かよくわかりました。100人いれば100の事情があって預けるんです。私自身、子どもを預ける母親のイメージを固定化していたと反省しました」
病院からの発表“だけ”で書くのは危険だ。真実を見誤る。彼女はそう痛切に感じたという。
’20年6月に、森本さんの『赤ちゃんポストの真実』が小学館から発売されることになった。本が出ることを改めて会社に報告すると、上司が「デスクを担当する」と言い出した。それは「検閲」を意味する。原稿をすべて見せろということだ。言論の自由を守りたいと思いながらも、森本さんは一応、原稿を見せた。すると、会社側は出版を認めないと言ってきた。
「会社が批判されるのを恐れたんでしょう。でも出版社の担当者は、“出版をとりやめたりしたら、それこそ新聞社が言論統制したとして批判されますよ”と言う。私もそう思いました。すると上司は、“小学館と熊日、どっちを信じるんだ”と声を荒らげた。正直言って、開いた口がふさがらなかった」
彼女はこの本の中で、メディアが赤ちゃんポストをどう見ているか、かなりの分量で当時の記事を比較している。さまざまな見方があるということを踏まえて、自らの取材を「伝えて」いるのだ。そこに偏りはない。
「だけど、“あなたは子育てをしながら働いて、社内のみんなに世話になっているのに”と上司が言うわけですよ。世話になっていたら本を出してはいけないのか、世話になっているから、ほかの記者と同じ論調で書かなければいけないのか。そんなバカな話はありません。そのとき、同じ部屋には上司と私のほかに3人の同僚がいたのですが、誰も何も言わなかったのが悲しかった」
変わらぬ会社の態度に、ついに心が折れた
そして彼女は、夜勤専門の部署に異動になった。明らかな嫌がらせである。異動先の部署が配慮してくれ、夜勤は週の半分になった。
本を出す出さないで、その後ももめた。どうしても出すなら「うちの会社は関係ない」と入れてくれ、と言われたため、彼女はあとがきに「すべての責任は私個人にあり、熊本日日新聞社は関係ない」と明記している。
「この本を出さなかったら私は一生、後悔する。上司に、出していいとかいけないという権限はないはずですから」
それなのに彼女は懲戒処分を受けた。デスクを通さないものは出してはいけない、デスクは記者を守るために存在するのだから、というのが会社の言い分だった。だが森本さんは、自分の責任で本を書き、自分が矢面に立っているのだ。記者を守るというなら、「うちの記者がいい本を出しました」とバックアップすべきだろう。緻密な取材と、あらゆる角度から見た公平公正な分析は、まさに新聞記者の王道である。
その後、森本さんは疲れ果てて約1か月休職し、心療内科に通った。どうしても納得がいかず、労働基準監督署へも足を運んだ。休日に取材をして書いた本が、会社の業務に支障をきたしたなら(例えば、ヘイト本を出版したなど)問題だが、この場合はなんら問題を認めないと伝えられた。弁護士には、「記者が本を出して処分なんて聞いたことがない。新聞社は自分で自分の首を絞めているようなもの」と言われたそうだ。
労働基準監督署が法に基づいて会社に説明することとなり、どこに処分の根拠があるのかなどを、森本さんも含めてメールでやりとりした経緯もある。だが結局、会社は「回答しない」と結論を出した。裁判を起こしたら勝てると言われたが、森本さんの心は折れた。
「そのあとも原稿依頼が来たり、ラジオで私の本を紹介してもらえることになって呼ばれたりしました。そのたびに会社に報告していたんですが、今度は口頭で厳重注意を受けた。当時、月刊誌『Journalism(ジャーナリズム)』に寄稿する機会があったんです。原稿を会社がチェックし終わったあと、“後ろから弾が飛んできたこともある”という一文を足しました」
森本さんの「抵抗」である。
ついに会社をやめた森本さん、今後の展望は
2022年になって、特定の相談員にだけ身元情報を明かす「内密出産」が話題となった。慈恵病院では’19年からこの方式を取り入れており、これまで4人以上が内密出産している。さらに同病院では、妊婦がいっさい身元を明かすことなく出産し、その後も匿名を維持しつづける「匿名出産」を受け入れることも明らかにした。
そんなことから森本さんにも、内密出産について話をしてほしいとか、寄稿してほしいとかの依頼が3件、舞い込んだ。会社に報告すると、すべて却下された。
「あの本に載っているのは、私が自分で取材をして書いたことです。先方も私を指名して依頼してくださるわけだから、喜んで受けたいんです。それを会社がいいとか悪いとか判断するのはおかしい。私の尊厳が保てない。もう耐えられないと思いました」
その日のうちに辞意を伝えた。慰留されたが、彼女の気持ちが組織に戻ることはなかった。
29年間、まじめに仕事をしてきた会社、大好きだった仕事、人として大事なことを教えてくれた先輩や同僚たちと別れるのはつらかったが、とにかく組織の論理、しかも言論の自由を訴えるべき組織が検閲まがいのことをしたり圧力をかけてくる状況に、絶望と諦念しかなくなってしまったのだ。
「ギリギリまで耐えようとしたんですが、力尽きた。夫は、“何も間違ったことはしていないのだから堂々としとけ”と言ってくれました。双子の息子はひとりがやめるのに反対、ひとりは不明(笑)。いずれにしても、まだまだ子どもたちには学費がかかりますから、私もがんばらないと」
今、彼女は「赤ちゃんポストは社会を映す鏡」だと思っている。困っている人に気づけない社会の問題、周囲の問題、同時に助けを求められない当事者の問題。赤ちゃんが絡むと、どうしても母親だけがフォーカスされるが、「それも実際にはおかしい」と彼女は言う。男性の責任を問われないのはなぜなのか、妊娠・出産は悪いことでも恥ずべきことでもないのに、どうして結婚外だと、あたかも「罪深い」ようにとらえられてしまうのか。
「少子化が進む日本で、本人が産むと決めたならもっと物心両面での支援があっていいと思う。祝福したいですよね、子どもに罪はないんですから」
今後、取材したいテーマもある。中絶、社会的に養護されている子どもたちのこと、などなど。
「トータルで見て29年間、働いてきたことは誇りに思っていますし、関わってくれた人たちに感謝もしています。組織の中で、どこかでボタンを掛け違ったのかもしれない。ただ、私はどこを見て、何を見て取材をするのかということだけは忘れたくないんです。読者の知る権利をつぶす記者にはなりたくなかった」
森本さんは、柔らかな口調で大事なことをきっぱりと言う。最後は、きりっとした表情がさらに締まった。
(取材・文/亀山早苗)
【PROFILE】
森本修代(もりもと・のぶよ) ◎1969年、熊本県生まれ。静岡県立大学在学中の1996年にフィリピン・クラブを取材して執筆した『ハーフ・フィリピーナ』(森本葉名義/潮出版社刊)で、第15回潮賞ノンフィクション部門優秀作。1993年、熊本日日新聞社入社。社会部、宇土支局、編集本部、文化生活部編集委員などをへて、編集三部次長に。2022年には約29年間勤めた同社を退社し、フリーライターとなる。