「浪曲(浪花節)」と聞くと、「なんだかよくわからないけれど、かすれた声でうなっている芸」で、年寄りが聴くものだろうと思いがち。だが今、関東唯一の浪曲の定席である「木馬亭」をはじめ、渋谷でのらくご会やホールでの浪曲の会などに、若い人たちが足を運んでいる。
全盛期の昭和初期には3000人いた浪曲師(語り手)だが、時代の流れとともに今は東西合わせて70人ほど。浪曲師と組んで三味線を弾く曲師は、25人ほどしかいない。そんな中、幅広い活躍で注目を集めているのが玉川奈々福さんだ。
人生、何が起こるかわからない
10月上旬、木馬亭に登場するなり「10月といえば、もう義士ものですよね」と、赤穂義士伝の人気演目『俵星玄番(たわらぼしげんば)』をかけた。大きく張りのある声が響き渡り、客たちはいきなり前のめりになる。それほどパンチの効いた、そして、こちらの腹に染みこんでくるような声なのだ。
「鷹は飢えても稲穂はつまぬ──」
高らかにうなる彼女の声に合わせて、客席の熱気が高まっていく。目の前で、義士に惚れ込んだ槍の玄蕃が雪の中、討ち入りの助太刀をしようと駆けつける絵が見えてくる。まるで、玄蕃が目の前を走り抜けていくようだ。
「私、この5年で爆発的に“デカい声”が出るようになったんですよ。昔は蚊の泣くような声だったと思います、自分でも。曲師として始まって、浪曲の世界に入って27年になりますが、いまだに浪曲はわからない(笑)。わからないけど楽しいから、そして、わからないからこそもっと知りたいから、がむしゃらに走ってきたのかもしれません」
にこやかに穏やかに話しながら、奈々福さんのまっすぐな瞳は怖いほど輝いていた。
三味線教室での衝撃的な出会い
「浪曲」とは、浪花節とも呼ばれ、落語、講談とともに「日本の三大話芸」といわれている。講談が戦国時代に始まり、落語は江戸時代に生まれたのに比べ、浪曲は明治時代初期に始まった演芸。その起源は、古くから伝わる説経節や祭文などといわれる。
落語は「噺(はな)す」、講談は「読む」、そして浪曲は「うなる」もの。三味線とともに、一席を「節」(歌)と「啖呵(たんか)」(台詞)で物語っていく。その魅力はまさに“ひとりオペラ”。重視されるのは、一声、二節、三啖呵。とにかく「声」の魅力で、物語に引きずり込む稀有(けう)な力が要求される。
奈々福さんは大学卒業後、出版社で編集者として仕事をしていた。多忙な日々を送りながら、あるとき「一生できる趣味をもちたい」と思った。習うなら「和」の習い事がいいなと考えていたという。華道でも茶道でも、踊りでもよかった。
「そんなとき新聞で、日本浪曲協会が三味線教室を開くという記事を見つけたんです。勤務先から近いし、なにより『三味線を無償貸与』と書いてあった(笑)。いきなり三味線を買うなんてリスクが高いですから、飛びつきました。浪曲なんてほとんど聴いたこともありませんでしたが、最初にそこで聞いた三味線の音色にびっくりしました。衝撃的に美しかったんです」
曲師(浪曲の三味線弾きのこと)の師匠の撥(ばち)先から、丸く小さなダイヤモンドの粒がぽろぽろ落ちていくのが見えるようだったという。拾いたいけれど瞬時に消えていき、決してつかむことができない宝物。奈々福さんは心をわしづかみにされた。