今年でアニメ放送25周年を迎える、CLAMP原作の少女マンガ作品『カードキャプターさくら』。1996年より連載が開始され、魔法少女ものとして絶大な人気を誇り、国内外問わず多くのファンに愛され続けている作品だ。
本作は主人公・木之本桜の親友・大道寺知世の桜に対する想いや、桜の兄・桃矢と雪兎の関係など、1990年代に女児誌で連載していた作品として他に類を見ない先駆的な描写をしている。
原作者のCLAMP氏いわく、「どんな愛の形がそこにあれど、それが当たり前になっているような世界を描きたかった」という。その言葉どおり、桜と同性である知世が彼女に想いを寄せていたり、また彼女らの通う小学校には、教師と交際をしている生徒もいたりする。
男女間における恋愛、またそれに近い親愛・友愛、そして同性同士の慕情など、この作品に生きるキャラクターたちはのびのびと、誰にも咎(とが)められることなく描かれている。それが当時の女児向け雑誌『なかよし』(講談社)に、看板作品として連載されていた。そして現在、新章”クリアカード編”が連載中であり、今まさにクライマックスに差しかかろうとしている。
そんな『カードキャプターさくら』に見る、ふたつの愛の形。木之本桜への大道寺知世の想い、月城雪兎をめぐる主要キャラクターたちの関係について考えてみたので、自分なりに言葉にしてみることにする。
知世の桜への想いは、「両想い」を望まぬ海よりも深い愛
主人公・木之本桜のいちばんの親友である大道寺知世。柔和でありながら、桜のことになるとなりふり構わぬ素振りを見せるコミカルな性格も垣間見せ、ファンからの人気も厚い彼女。まずは、その「知世」という名前に注目したい。
キャラクターを語ろうとするとき、私は必ずといっていいほど”名は体をあらわす”ということで名前に注目するのだが、例に漏れず彼女の名前を見てみると、「世を知る」と書いて「ともよ」と読む。
知世の声を演じた岩男潤子氏がアニメ版クロウカード編コンプリートブックで、
《つらいときでも知世ちゃんはさくらちゃんたちに心配をかけまいと、明るくふるまうんですね。(中略)心底いい子だと思うんですけど、もっとわがままでいいんだよ、甘えてもいいんだよ、と言ってあげたくなりますね》
と語っているように、彼女は小学生にあるまじき、精神の成熟した女性なのである。
そして、アニメ版クロウカード編第50話の「さくらと小狼とみえない糸」で、知世は桜にこう伝える。
「大好きな人が幸せでいてくださることが、いちばんの幸せなんです」
たとえ想い人が違う人間を好きでいても、それで幸せなら、それこそが自分の幸せになりえる──このような台詞を小学生である知世が発していることに驚き、また彼女の深い慈愛に心動かされたファンも決して少なくないだろう。
知世は小学生の女子だが、中身は恋愛やいろいろな面において達観した大人の女性なのだ。そして桜に対する彼女の想いは、「どうかずっと幸せでいてほしい、そしてそれを傍(そば)で見ていられるだけで幸せ」という、「自分が恋をしているにもかかわらず、傍観者に徹する恋」なのである。
そうなると、彼女がクロウカード回収のときに桜に着させるバトルコスチュームや、戦闘を記録するビデオカメラなどが説得力を帯びてくる。
桜を笑顔にさせ、成長させるためのバトルコスチューム。
桜を客観視して愛する象徴として残しておくための記録用ビデオカメラ。
──
成長し、大人に近づいていって、いつか本当に心から愛することのできる人を見つけるまでの過程を見守り、傍にいてあげられるのが私でありたい。その想いを育むきっかけは何だったのかと考えてみたときに思い浮かぶのは、知世の母である園美だ。
知世が桜を想うのと同じく、園美も亡き桜の母・撫子を特別に想っていた。その想いの深さは、16歳で撫子が結婚相手に選んだ桜の父・藤隆を憎むほど。撫子が他界し、その想いは伝えられなかったものの、心の中には常に撫子の存在があり、想いの深さは変わらない。知世の”想い人の傍で幸せを願う”という姿は、そんな母に育てられたからこそ受け継いだものなのかもしれない。
「仮の姿/真の姿」「偶然と必然」作品に描かれた愛の形を読み解くキーワードに注目
そんな知世が想いを寄せる桜の想い人・月城雪兎には秘密があった。それは雪兎がクロウカードの創造者であるクロウ・リードが創りだした2人の守護者のうちの1人、月(ユエ)の仮の姿であるということだ。
これにより作中ではさまざまな事象が起こるのだが、雪兎(月)が桜の兄・木之本桃矢に魔力を分け与えられ、クロウカードを集める少年・李小狼と桜に恋愛感情に似た想いを寄せられるという展開にフォーカスしたい。
魔力ある者が雪兎に惹(ひ)かれるのは、ユエという内なる姿が持つ陰の力によって引き起こされたものである。クロウ・リードが創りしユエの魔力は、クロウの転生者だった藤隆の子である桜や桃矢、そしてクロウカードを所持する小狼のそれと共鳴する。雪兎は自分を想う桜に対し、その想いは敬愛心によるものであって、恋愛における対象は自分ではない、と諭(さと)したうえで、自分の想い人は桃矢であることを話している。
これは人を愛するという具体的な事象に「仮の姿/真の姿」という魔法性が備わり、雪兎の内なるスピリチュアルな部分が木之本桃矢という人間(の魔力)に惹かれた、いわば精神的/内在的な愛が先行した形、とも考えることができる。ユエの性別は不定義、もしくはどちらにも当てはまらない/当てはまるものだ。そんな彼を真の姿とし、人間である雪兎を仮の姿とすることで、愛の形の定義において可能性の広がりを示唆させている。
改めて注目したいのが、月と太陽を司った審判者やクロウカードの造形をはじめとして、本作にはタロットや陰陽五行説などさまざまなスピリチュアル要素が盛り込まれていることだ。これらが重要視するのは潜在・内在した精神であり、先述した「人を愛するという具体的な事象」にもかかわってくることが本作を読み解くカギである。
アニメ版クロウカード編第44話「さくらとケロと不思議な先生」で、桜が通う友枝小学校の教師・観月と桃矢がこんな会話をするシーンがある。
「世の中には偶然なんてねぇよ」「あるのは必然だけね」
同様の台詞が『XXXHOLiC』という別作品にも登場することは、CLUMP作品ファンならおわかりのことかと思う。作品の枠を越えて繰り返し登場するほど重要なこの台詞から考えられるのは、自分の周りに起こる出来事だけでなく、誰かに「惹かれる」という心理的情動には必然性がある、精神間のつながりには理屈では説明できない強い引力がある、ということだ。
ただ異性間の恋愛だけでない、さらに言うならば典型だけでない愛の形を提示し、そのあり方までも織り交ぜて紡がれた本作が、多様性や恋愛の自由というものに着目される現代に先駆けて描かれていたということは最もすばらしく、称賛すべき点であろう。
本作に触れてみると、愛というものは決してフィジカルなものに定義されない、たおやかで寛容なものだと感じる。月と太陽の巡りのように、あるいはタロットカードの導きのように人が人を想い合い、確固たる関係が結ばれる。『カードキャプターさくら』が名作と言われる所以(ゆえん)は、こうした人間が抱く愛を洞察する深いまなざしをたたえ、今を生きる人々を優しく包み込む物語を紡いでいるからではないだろうか。
そんな本作の主人公・木之本 桜の誕生日である4月1日より、新章”クリアカード編”のクライマックスとアニメ放送25周年を記念したイベント「さくらフェス2023」が開催。初期のクロウカード編より主要キャラクターのCVを務めた声優陣が登壇し、作品の軌跡をたどりながら桜の誕生日を祝うトークが行われる予定だ。
物語に夢中になりながら大人になり、成長してきた往年の「さくら」ファンのみなさまは、ぜひ足を運んでみてはいかがだろう。
(文・安藤エヌ/編集・FM中西)