ゲームやアニメ、映画や漫画で、“自分の人生が救われた”と思った経験はあるだろうか。
それがフィクションであれ、実話をもとにした作品であれ、登場キャラクターたちが活躍し、仲間と切磋琢磨し、現実を切りひらいていくさまを見たとき、“自分も変われるのではないか”と奮起する人は少なくないだろう。
今回お話を伺った林風肖(はやし・ふゆき)さんも、“ゲームに救われた”うちのひとり。死と涙をテーマにしたダークファンタジー『CRYSTAR -クライスタ-』、自らのエゴを糧とした学園RPG『モナーク/Monark』など、フリュー株式会社でゲーム開発を手がけるクリエイターである。
「学校にも家庭にも居場所がない」「幸せじゃなくても、不幸じゃなければそれでいい」そんな少年時代を送ってきた林さんが、それでも生きることを諦めなかったのは、“ゲームに救われた経験”があったから。
そして、そんな少年が大人になった今、自分と同じように生きにくさを感じている人たちを救うためのゲームを創り出している。壮絶な過去の体験から、林さんはどのようにゲームに救われたのか。第1弾では、そんな彼がゲームクリエイターを志すまでの半生をたどる。
※本記事は暴力的な表現を含み、読者様の気分を害する可能性があります。閲覧時はご注意ください
ゲームとの強烈な出会い。薄暗い部屋でひとり、声をあげて泣いた
──林さんが初めてゲームに触れたのは何歳くらいのときですか?
「幼稚園くらいのときです。父親がゲーム好きだったのでよく遊んでいました。でも、小学生のときに両親が離婚して母方についてから、中学2年生くらいまではゲームに触る機会がほとんどなくて。
小学校から中学2年までの間は本が好きで、1日3冊くらい読んでいました。児童書からエログロ小説、ライトノベルと、かなり雑食で、中学校の図書室はコンプしていたと思います(笑)。特に森絵都さんの作品がすごく好きで、今でも記憶に残っています」
──再びゲームをプレイし始めた理由は?
「中学2年生のときにまたゲームで遊び始めたのですが、母親の再婚相手が『PlayStation 2』を持っていたのと、いとこがゲーマーだったのがきっかけです。
当時いとこに借りた『Kanon(Key)』という作品があったんですけど、それがすごく感動したんですよね。いわゆる恋愛シミュレーションゲームの類で、親の目を盗んで夜遅い時間に自分の部屋でこっそり遊んでいたんですよ。当時は生活リズムもひどく、徹夜明けでボロボロのテンションだったんですけど、朝日が差し込む薄暗い部屋の中で、“この世にはこんなに感動するものがあるのか!”と号泣したのを覚えています。それまで本から得ていた感動を、ゲームが大きく上回った瞬間でした」
──どういった点に感動を覚えたんですか?
「『Kanon』の中でもいちばん好きなヒロインの“美坂 栞ちゃん”のストーリーの中で、“生きることの美しさを教えてくれる尊さ”を感じたんです。栞ちゃんは病気を患っていて余命いくばくもない中、自分の置かれている状況をおくびにも出さず健気に生きている女の子。その姿がとても美しかった。あこがれを抱くと同時に、自分もそんな人間になりたい。頑張って生きないと、と思いました」
──プレイヤーである主人公ではなく、ヒロイン側に共感したんですね。
「そうですね。 自分が人に関心を持つ瞬間って、“この人は自分を受け入れてくれるかもしれない”とホッとする感覚を持つときなんですけど、ゲームに登場する栞ちゃんの姿が、その思考フローに当てはまっていたのだと思います」
──ほかの作品でも、そういうキャラに共感することが多いんですか?
「同時期にプレイしていた『ドラッグオンドラグーン(スクウェア・エニックス)』や『真・女神転生if…(アトラス)』も同じ考え方や価値観のキャラクターに強く惹かれていました。
『ドラッグオンドラグーン』は、ひたすら理不尽な世界で一生懸命生きている主人公カイムに美しさを感じてましたし、『真・女神転生if…』は、いじめっ子たちに復讐するために悪魔と契約したボスキャラクターのハザマに共感した。ゲームの中で、自分と似た状況でも誇りを持って美しく生きている存在に触れ、すごく救われていました」
家にも、学校にも、自分の居場所はどこにもなかった
──「ゲームにすごく救われた」と言っていましたが、学生時代は過酷な日常を送られていたとお聞きしました。言いにくいことを聞いて申し訳ありませんが、当時何があったのでしょうか?
「小学生のときは外見が理由で、クラスであまりよい扱いをされておらず、中学生になるとクラス内でいじめみたいなことをされていました。その場にいるだけで笑われたり、どつかれたり、休み時間に殴られたり、物を取られたり……。
当時、ジブリ作品の『耳をすませば』にすごく憧れを抱いていて。あんな青春時代を送りたいと思っていたけど、そんな日々を送っている自分が到底叶えられるはずもなく。むしろ“不幸じゃなければそれでいい” “誰もかまわないでくれ”と思っていました」
──家庭内でもつらい状況は変わらなかった。
「母親が、かなりヒステリックな人だったんですよ。特に小学校高学年〜中学1年生のときがいちばん激しくて、約束事を守れなかったら“裸で町内一周走ってこい”と全裸で外に出されたり、検尿を飲まされたりすることもありました。それでも当時は母親しかいなかったから、“どんな形であれ、この人は自分をいちばん大切に思ってくれているはず”と思っていました。
だから、中学1年生のときに母から“再婚したい”と話があって、自分が第一じゃなくなることが怖くて反対したんですよ。そしたら、“私だって女だ!”と絶叫されて。今思い返すと至極真っ当なことだと思うのですが、当時は“見捨てられた”という絶望感がすごかったです。
学校も家も自分の居場所はどこにもない。唯一のひとりの時間だった夜の時間が、いつまでも続けばいいのにと思って過ごしていましたね」
──その状況から「逃げ出したい」と思うことはなかったのでしょうか……。
「ありませんでした。確かに、学校でされていたことは“いじめ”だったし、親からされていたことは“虐待”だったかもしれません。だけど、明確な言葉にしなければ“いじめ”は“いじり”だし、“虐待”は“しつけ”や“教育”にとどまる。そうやって鈍感になっていれば愛を感じられるんですよ。だから、いくら嫌な思いをしても不登校にはならなかったし、家出をしたこともないです」
──逆に「見返してやる」といった気持ちは?
「その度胸もなかったですね……。一度、自分よりガタイのいい子に本気で首を絞められて、意識を失いかけたことがあるんです。 そのときはさすがに“この人を殺さないと本当に死ぬかもしれない”と頭をよぎりました。でもそれ以上に、“もしかしたら殺されないかもしれない”と思い、何もできませんでした。そのときに僕は死を感じても仕返しすらできないと気づきました。
これはたぶん、性善説を信じている部分が根底にあったんだと思います。“自分が人を殺す行動を取らなければ、この人はきっと僕を殺さないだろう”というぬるい価値観が、人に仕返しする度胸を奪っていたのだと思います」
好きを発信することでつながる輪、動き出した人生
──そのつらい状況を救ってくれたゲームが、先ほどお話ししていた『Kanon』だった、と。
「そうですね。『Kanon』だけじゃなく、夜ひとりの時間にやるゲームにはずっと救われていました。つらいけど生きていればフィクションの世界で楽しむことができるし、こういう体験ができるならもっと生きていてもいいなと思えました。
さらに、ゲームにハマってから自分の行動も変化していったんですよ。中学2年生のときにゲームにハマってからそのよさを知らしめていきたいと思って、“このゲーム面白いから、やってみてよ!”と布教しはじめました」
──そんな状況下だったのに、すごい勇気です。
「当時は今ほどオタクを受け入れる環境ではなかったのですが、“こんなに生きることが楽しくなるコンテンツがバカにされるのはおかしい!”くらいの熱量になってて(笑)。その日を境に、比較的同じようなテンションの子たちに話しかけるようになりました。
最初は”キモイ!”と言われることもあったけど、“実は俺も好きだった” “やってみたら面白かった”と言ってくれる人が周りに増えてきたんですよ。好きなものを“好きだ”と発言することで、同じ好きを持っている人たちの輪が広がっていった。それにもすごく救われましたね」
──ゲームクリエイターを目指したのも同時期からですか?
「そうです。“僕が体験した感動と同じような感動を自分でも描いて、世の中の人たちに認めてもらうんだ”と思うようになったんです。
それで中学3年生のときにプレイした『月姫』をつくっているTYPE-MOONが同人サークル(※)だと知り、ゲーム仲間と夜の公園に集まって“今から俺たちはゲームサークルをつくるぞ!”と(笑)。お互いに何のスキルもないのに、“僕は企画とシナリオで、お前はプログラマー。君はイラストレーターだ!”と役割を決めたのがゲームクリエイターへの道の始まりでした」
※同じ趣味や志を持った人たちが集まって結成した団体のこと
(取材・文/阿部裕華、編集/FM中西)
◇ ◇ ◇
壮絶な体験のなかでゲームの魅力を知り、魅力を発信することで仲間を見つけた林さん。夜の公園で誓い合った日から、林さんのゲームクリエイターとしての道が始まる。
第2弾インタビューでは、過去の経験を経て林さんがたどりついたゲーム制作への思いと、現在でも貫く信条、自身の作品である『モナーク/Monark』にかけた胸の内を聞いた。