’90年代後半に若者を中心に起こった「メロコア」と呼ばれる音楽ムーブメント。そのブームの中心にいたバンド、SNAIL RAMP(スネイルランプ)。スネイルでベース兼ボーカルを担当していた竹村哲は、30歳でキックボクシングを始め、43歳のときに第12代NKBウェルター級王座となった。
インタビュー#2では、バンドマンから、キックボクシング王者というその輝かしいセカンドキャリアについて語ってもらった。
30歳でジムに入会。キックボクシングにハマる
──いつごろから、キックボクシングを始めたのですか?
「喉のコンディションが気になって、バンド活動がストレスになっていた2001年春にジムに入ったんです。バンドの1回目の休止と入れ替わりみたいな感じでした」
──キックボクシングを始めたきっかけは、何だったのですか?
「最初から、キックボクシングがやりたいって思っていました。キックをやる前に、プーケットに遊びに行ったことがあったんですが、そこにスタジアムがあって、週に2回、興行が開かれていた。観に行ったら“面白い!”って思って、滞在中もレンタルバイクを借りて4回ぐらい観に行きました」
──そこから実際に始めるのには勇気がいりませんでしたか?
「めっちゃいりましたよ。ジムを見学して、ヤバそうだったらすぐ帰るつもりでした。でも自主性に任せるジムだったので、しごかれることもないからいいかって入会しました」
──キックボクシングを始めてみて、どうでしたか?
「どんどんキックボクシングにのめり込んでいきました。レコーディングスタジオで自分の録音が終わったあと、片隅で縄跳び跳んだり、シャドウしていましたね(笑)」
キックを始めて1年。31歳でいきなりのリングデビュー
──キックボクシングのプロデビューは、いつでしたか?
「デビューは2002年の12月。今はアマチュアの経験を積んでからプロライセンスの試験を受けて、受かってからデビューするのですが、当時はプロライセンスのテストもなくて、いきなり後楽園ホールで試合していました」
──後楽園ホールといえば、格闘技の聖地ではないですか。デビュー戦は手ごたえがありましたか?
「デビュー戦でいきなり肘(ひじ)をもらったんです。肘を教わっていなかった(笑)」
──本当ですか。
「いい加減なんですよ、キックのジムって。キックってなにも防具を着けないので、短い木刀で思いっきり殴られたような衝撃でした。あれが一番のショックでしたね」
──それでも続けようと思ったのは、どうしてですか?
「単純にキックが好きだった。スネイルを途中で止めて、キックに移ってきちゃった負い目と言うか。バンドをやりながらキックをしていたので、そのときは風当たりがキツかったですよね。当時はBBS(電子掲示板)で“もっと曲書けよ”とか、“スネイルやれ”って書かれたりしました」
──キックボクシングと、バンド活動との両立は難しかったですか?
「バンドは2002年から2年休んで、またやり始めるんですけれど。キックをプロでやりながらバンドやって、なおかつ若手バンドのCDを出すためのレーベルの運営もやっていた。みんなに迷惑をかけているなっていう気持ちがあって、“せめて一個、結果は残さなきゃいけない”っていう覚悟に変わりました」
──そこで、キックに本腰を入れるのですね。
「わかりやすいのはベルトを獲ることだなって。チャンピオンにならなければ、“あの人、プロだよ”って言っても、1戦しかしていないキックボクサーと一緒なんです。なんとしてでもベルトを獲ろうって思いました」
43歳で念願のキックボクシング王座に
──第12代NKBウェルター級王座になられたのが43歳でしたが、プロデビューから12年かけてチャンピオンになるまで、心がくじけませんでしたか?
「30代半ばでランキングに入れたんですが、上位は自分よりも若いし、強い人たちばかり。最初はかなわないって思いました。でも待てよ。今はかなわないけれど、2年後、3年後になればこの中で辞めていくやつが出てくる。そうなると、上のやつがいなくなるから必然的に上がっていく。今、勝てなくても長期戦で見れば何とかなるんじゃないかって思ったんです」
──ケガなどのトラブルはなかったのでしょうか。
「両膝合わせて3回手術しているんです。それ以外にも、顎を折られたり、肋骨(ろっこつ)を折ったりとかあって」
──壮絶ですよね……。
「でも顎や肋骨って、治療やリハビリをする必要がないからケガっていう意識はないんです。膝は手術するから、ベッドで安静ですけど。膝は消耗品なんです(笑)」
──キックボクシングを辞めたいと思ったりしませんでしたか。
「キックをやっていて楽しかったし、デメリットは1つもなかった。ケガをすると、ケガした人の気持ちがわかるようになったし、こうすればいいっていう知見も生まれる。それってケガしてない人はわからないじゃないですか」
──非常に前向きですよね。
「死なない限り、いろんな経験はするべきだなって。何かに役立つことはある」
──どうやったら、竹村さんのように夢中になれるものを見つけられますか?
「本当に好きなものが見つからないのであれば、とりあえず誘われたものに一度は乗ってみるっていうのは大事だと思います。それが面白くないと思っても、やってみると違うと感じることって多い」
──なるほど。
「やりたいことがないって言う人って、実はやりたいことがあったりする。心の中で“やったって無理”って言って、自分で押さえつけちゃう。そういう人が多いと思います。自分の場合も、バンドもキックもできないだろうと思ったけれど、やってみるとなんとかなっちゃう。それなりの努力や時間をかけないと無理だけれどね」
バンド時代、レーベル運営で1500万の借金
──話は変わりますが、レーベル運営で、1500万円の借金を作ったというのは本当ですか?
「はい。ディストリビューター(卸売業者)で売掛金がたまっていたんです。レーベルは自分一人でやっていたけれど、事務的なことは委託している会社にやってもらっていました。ある日、委託会社から連絡が来て、売掛がたまっているって知らされたんです。最初は1700万円って金額で、“何それ、ちゃんと払ってもらってよ”って言って。結局、ディストリビューターと“じゃあ、いくらずつ払います”っていう契約をしたら、1500万円を残して、その社長が飛んだんです。“マジかよ”って思いましたね」
──でも明るく話していますよね……。
「“ふざけんなよ、ちくしょー”って、そう思って返ってくるならいいけれど、返ってこないじゃないですか。もしも、相手をひどいと思って返ってくるなら、“あいつ~”と言いながらわら人形を打ちますよ(笑)。でもそんなこと考えてもお金は返ってこないんで、もうなかったことにするというか。ネタになったらいいかなって」
──膝のケガもそうですけれど、どうやったら目の前のことから逃げずに、前向きでいられますか。
「僕も昔は心配性で、将来に対しての不安とかめちゃくちゃあったんです。ピークだったのが中学生くらい。僕、相撲取りになりたかったんですよ」
──相撲取り? ですか。
「当時、北尾が好きで立浪部屋に入ろうと思っていて。新弟子検査では、173センチ、体重75キロ以上必要で、体重が足りなかったんです。そこから1日5食食べて1年かけて太るんですよ。でもどんなに食べても、75キロでピタッと止まった。これだけ食べても10キロしか増えない。“相撲取りにはなれないかもしれない”って毎晩、落ち込んでいたんです」
──今の竹村さんからは想像ができない姿ですね。
「でもそれで、“こうなったらどうしよう、まずい”って考えることって、ほぼ妄想だなって気づいたんです。現実にはまだ起きていない。起きる前から不安になっている。例えば、“明日ゴジラが来たら踏まれる”って考えるのと、たいして変わんないなって思って。そこから、落ち込まなくなりましたね」
今の目標はキックボクシング人口を増やすこと
──現在は、NKBのマッチメイク(格闘技において対戦カードを決定すること)をされていますが、どういった経緯で担当することになったのですか?
「マッチメイクはもともとやりたかったわけではなく、前任者がぱっと辞めてしまって、団体の代表から“やってくれ”って言われて。2回断ったけど、結局、3回頼まれてやることにしましたね。でも、お金がもらえるわけではない。完全ボランティアなんですよ」
──今は、音楽活動よりキックボクシングにまつわることが多いのですか?
「ジムの経営がメインです。基本的には自分でジムを作りました。レーベル作りと一緒ですよね、人に聞きながらやっています。今でもそうなんですけど、好きなことしかやってきてない。就職したこともないし、就職するような好きな仕事に出合わなかったんです」
──今後は、どういうふうになりたいと思っていますか?
「今後ですか。ここのジムを成功させたい、成功させないといけない。金銭的にというより、選手を育てないといけないと思っています。うちのジムからもプロデビューさせた選手がいるのですが、もっときちんとした選手にしたいですね。あとはみんなに楽しんでもらって、キック人口を増やしたい。母数が増えれば、そのぶん競技のレベルも高くなるし、キックボクシングが認知されていくと思うんです」
「会うと元気になる」。彼にはその言葉が合う。音楽で若者たちを勇気づけていた竹村さんは、公言通りキックボクシングでも結果を残し、今は若手の育成に注力している。バンドからキックボクシングとフィールドを変えても、好きなことをやるという姿勢は揺らがない。だからこそ、セカンドキャリアも輝いている。
(取材協力:TOKYO KICK WORKS)
(取材・文/池守りぜね)
《PROFILE》
竹村哲(タケムラ アキラ)
1971年東京都生まれ。1995年にスカパンクバンド『SNAIL RAMP』を結成。2000年にリリースしたアルバム『FRESH BRASH OLD MAN』でオリコン1位を獲得するなど、一時代を築く。バンド活動と並行し、2001年からキックボクシングを始め、2014年10月に43歳の年齢でNKBウェルター級チャンピオンに輝く。2015年12月12日には後楽園ホールにて引退試合を行った。2021年にキックボクシングジム「TOKYO KICK WORKS」をオープン。