「歌詞」は一番身近で、一番よくわからないものだった。
なぜミュージシャンは、よくわからないことを、わざわざメロディーにのせて歌うのか。「ポエム」と呼ばれることを最も恥ずかしがっていた思春期まっさかりの私は、それが不思議でしかたがなかった。
それでも毎週、片道30分、最寄りのTSUTAYAまでチャリを飛ばした。5枚で1000円キャンペーンを駆使してCDを借り、MP3に変換する。使い古されてバキバキに割れたプラスチックのケースから日に焼けた歌詞カードを開けば、そこには「わからない」がたくさんあった。
なぜわからないのにそこまでして音楽を聴いていたのか。たぶん、こどもの頃は「わからない」と「楽しい」は限りなく同じだったからなんだと思う。
しかも、わからないなりに歌詞カードを片手に1曲1曲に耳を澄ましていると、妙な納得をする時があったのだ。頭で分かるというより、心? 身体? っていうのだろうか。音と歌詞と自分が一つになるような瞬間があったのだ。
「ああ、なにこれ、すごい、お母さん、この音楽、すごい……!!」
そんなときは思春期も忘れて、感動のままによく母に話しかけていた。「そうやね、すごいなぁ」と母は言ってくれていたが、たぶんそのすごさは何一つ伝わっていなかったと思う。詞はいつも自分の言葉の先をすごい速さで走っていた。
今じゃこの世にあるだいたいの音楽が月1000円のサブスクで聴けてしまうことにちょっと寂しさを感じるが、その頃の癖はなおも健在だ。なにこれわからんと思える歌詞に出合えたとき無性にうれしくなる。そんなときはいまだにリビングで叫ばざるをえない。
「すごいよ、お母さん!!」
私はもうアラサーで、しかもお坊さんとなり、母は還暦を迎えたというのに。大人の僧侶の大声ほどガチなものはない。
そんなガチになれる楽曲の一つで、今も昔も圧倒的な驚異を感じるのが、星野源の『ばらばら』だ。
星野源の『ばらばら』はすごい
初めて聴いた時、おそらく高3だっただろうか。《世界は ひとつじゃない》というこの曲の歌詞にひどく共感した。
小中高と、クラスのスローガンといえば、「一致団結」「ALL FOR ONE, ONE FOR ALL」。とにかく一つになろうとする学生生活に蝕(むしば)まれていた私は、《世界は ひとつになれない》と歌う星野源に「あっ、この人、話のわかる人だ」と感じたのを覚えている。
年はひとまわり上だが、なんだか一瞬だけ同級生のように思えたのだ。「3組に星野がいる」そう思えた。星野源のすごさは、どれだけ世界に誇る大スターになったとしても、「3組の星野感」を思わせてくれるところにあるんじゃないだろうか。
とはいえ、当たり前だけど、星野源は3組の教室をゆうに飛び越えていく。歌詞の続きを耳にし、曲を聞き込んでいくほど、その印象は様変わりしていった。
《本物はあなた わたしは偽物》
このフレーズを初めて聴いたとき、衝撃が走った。えっ、そこまで言うのか。「世界はひとつじゃない」ことと《本物はあなた わたしは偽物》であることは、どうつながっているのか。わからない。突如、同級生だったはずの星野が老いていく。
さらに気づくのは、この歌詞が「みんなバラバラでみんないい」的な内容でもないことだった。生き方や自己啓発の話ではなく、「そもそも“ばらばら”である」と言わんが勢いで、もっと根源をつかまえようとしている。
極め付けは、このフレーズだった。
《あの世界とこの世界
重なりあったところに
たったひとつのものが
あるんだ》
あれだけ「世界はひとつじゃない」と歌っておきながら、「たったひとつのものがある」と歌うのだ。何もわからない。気がつけば、さっきまでマブダチだったはずの星野源は、いつの間にか仙人のような出立ちになっている。
この時、もう私は共感ではなく、驚異としてこの曲を聴いていることに気づいた。すごい。この曲、すごいよ、お母さん。一生噛み続けられる。スルメみたいな真理だよ。
そして、お坊さんになった今、この歌詞を通して見た星野源は、思春期に聴いた頃の輝きを保ちながら、別の輝きを放っていることにも気づく。
ブッダ。もはやブッダなのだ。それ以外の言葉を持てなくなってしまっていた。そういえば、星野源は『聖☆おにいさん』のブッダ役をしていた気もする。
すなわち、『ばらばら』の世界観は仏教でいう「悟りの境地」として見えはじめるのだ。
星野源のひとり観
まず、私なりのイメージにすぎないが、星野源の歌詞には通底していると思う一つの哲学について言葉にしてみたい。存在そのものの捉え方についてだ。
誤解を恐れず言うなら、星野源の見ている人間のあり方は、どうしようもなく孤独なのである。
《どんな 近づいても
一つにはなれないから
少しだけ せめて
(途中略)
きつく 抱きしめても
二つしかなれないから
少しだけ 長く》
──星野源『肌』
《僕らずっと独りだと 諦め進もう》
──星野源『うちで踊ろう(大晦日ver.)』
私がいつも星野源の曲から感じるのは、〈私〉と〈あなた〉が等しく共有できるものが存在しない世界像だ。人は一つになれず、ひとりに一つ世界を持っている。たとえ同じものを見ていても、たとえ同じ言葉を使っていたとしても、他者と自分が完全に同じ気持ちになることはできない、そんなひとりの世界だ。
ここには「ひとりでいたほうが楽」とか「人はひとりで生きなければならない」といった自己啓発や生き方論を越えた、星野源なりの真理のようなものを感じる。
その証拠として、星野源の歌ではこうした「ひとりである」ことを、歌詞の中の〈私〉がわかっていたとしても、それでも一つになろうとすることが多いように思う。つまり、意思や欲望を越えたところに孤独があるのだ。
星野源の歌はむきだしの真理ではなく、真理とちっぽけな自分とのせめぎあいとして私たちの前に現れる。だからこそ、曲を聴く私たちの目に「3組の星野」の顔が映ることがあるのかもしれない。
同級生、あらため野生のブッダ
星野源のひとり観に触れた上で、この2つのフレーズについて思いを馳せてみたい。
《本物はあなた わたしは偽物》
《あの世界とこの世界 重なりあったところに たったひとつのものが あるんだ》
私はいつもこの歌詞を耳にするとき、まだ言葉になっていない何かが心のなかにあふれだす。「本物」「偽物」「たったひとつのもの」と大きな表現が用いられるけど、言葉が生き物としてうごめいていて、一つの意味では捉えきれない懐の深さがある。
今私が感じることを言葉にするならば、まずこの本物の「あなた」とは、1番と2番の歌詞のつながりから、重なりあったときの「あなた」として聴こえる。つまり「わたしの世界と重なったあなたの世界」である。また、「たったひとつのもの」も同じ現象を指しているように思える。
では、偽物の「わたし」とは一体何なのか。重なりあったときの「あなた」が本物なのであれば、この「偽物の私」は重なるという現象とは異なるものであると言えるかもしれない。
私が頭に思い描いているのは、その直前の文脈の「気が合う」と思い込んでいるわたしである。言い換えるなら、わたしが思う「あなたが思うわたし」。ややこしい。つまり、自分が勝手に想像した“他人が見る自分”のことだ。そうした自分が抱く自分の虚像を偽物なのだと言っているのではないだろうか。
これらをまとめると、次のような世界観が見えてくる。
「あなたのなかのわたしが本物であり、わたしが思うわたしは偽物である」
よくある言い分として「他人にどう思われようがわたしはわたし」があるが、星野源の『ばらばら』はこうした言説とは違う地平を歩んでいるのが理解できる。わたしはあなたのなかにあるのだ。
先述したように、「わたしはわたしの世界を生きている」が星野源の世界観だと考えられるが、同時に『ばらばら』では「わたしが思うわたし」といった究極的な自我の独立性も否定しているように思えるのだ。
その世界観は、先述した「ひとり観」を突き詰めた結果生まれたものなのかもしれない。人の数だけ世界があるなら、わたしも相対する人の数だけ存在することにつながる。
私が感じる『ばらばら』の源泉となっている世界観は以下のようなものである。
世界はひとつじゃない。わたしはあなたそのものになれないし、あなたはわたしそのものにはなれない。わたしが思うあなたと、あなたが思うわたし、そのどちらも存在する。わたしが思うわたしだけがわたしではないし、あなたが思うあなただけがあなたではない。わたしはあなたによって初めてわたしになり、あなたはわたしによって初めてあなたになる。
このように星野源の『ばらばら』は、この世のすべてのものが、互いに存在の根拠を共有しながら生存している関係性そのものを歌っているように私は感じているのだ。
星野源の音楽は、『恋』における「夫婦」であったり、『不思議』における「愛」であったり、二人の間の出来事を歌うときに、関係性を表す既存の言葉に距離をとりながら表現していることが多い。それはこうした星野源の存在そのものの見方が起因しているように思う。
この『ばらばら』の世界観に、私の数少ないボキャブラリーから何か一つ言葉を添えるなら、「無我」という仏教の言葉がピッタリと当てはまる。仏教では、この世のすべてのものは互いに影響し合いながら存在していて、たったひとりで独立して存在しているものはない(無我)と説く。
さらにいえば、仏教でいう「世界」とはこの私たちが生きる一つの現実のことだけではなく、「ひとりの人間に、ひとつの世界がある」として説かれるのだ。
一僧侶の目線から見れば『ばらばら』で描かれている世界観は、仏教の悟りの境地そのものなのだ。本当にびっくりしちゃうくらいに。だから、『ばらばら』を聴くたびにブッダみを感じ、星野源のことを「野生のブッダ」と言ってしまいたくなる私の気持ちをここにしたためたかったわけである。
とはいえ、歌詞はいつだって「わからない」ものだと思う。ふとした瞬間にまったく別の景色が広がって見えることだって当然ある。
歌詞に思いを馳せるというのは、答えを求めるような営みではなくて、自分自身の心の発露に近いのだと常々思う。ある歌人が「和歌を鑑賞することは、鑑賞者の心のなかで新しく和歌を創造することである」と言っていたのを思い出す。
すなわち、それは私の言葉で言えば、禅問答。いや、むしろ今回に限っては源問答と言わせてもらいたいところだけど。歌詞に正解や一つの意味なんてないのだと思いながらこの連載を書いている。
《意味なんか ないさ暮らしがあるだけ》
──星野源 『恋』
野生のブッダとの源問答はつづく。
(文/稲田ズイキ)
《PROFILE》
稲田ズイキ(いなだ・ずいき)
1992年、京都府久御山町生まれ。月仲山称名寺の副住職。同志社大学法学部を卒業、同大学院法学研究科を中退のち、広告代理店に入社するも1年で退職し、文筆家・編集者として独立する。アーティストたかくらかずきとの共同プロジェクト「浄土開発機構」など、煩悩をテーマに多様な企画を立ち上げる。2020年フリーペーパー『フリースタイルな僧侶たち』の3代目編集長に就任。著書『世界が仏教であふれだす』(集英社、2020年)