『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』など、アニメ作品の劇場版が立て続けにヒットを飛ばしています。そして、作品に負けない人気を誇るのが、登場人物たちの“声”を担当する声優です。テレビを見ているとき、「あれ、この声、どこかで聞いたことがあるぞ」と思ってもなかなか思い出せない。でも、あとになって、それが人気のアニメキャラや映画の吹き替えをしている声優の声だったとわかるような経験をしたことのある人もいるでしょう。
【声のお仕事】シリーズでは、映画の吹き替えで活躍する声優に、思い入れの強い映画と俳優について語ってもらいます。第2弾(全4回)は、『ロッキー』シリーズのシルベスター・スタローンをはじめ、これまでにおよそ7000本もの作品で吹き替えをしてきた羽佐間道夫さんです。第1回は“声優”という仕事が誕生した当時のお話を伺いました。
いつの間にか先輩がいなくなった
──89歳におなりとか。いまや“声優界の生き字引”のような存在ですね。
「業界では、ぼくより前の世代の先駆者がもういませんからね。小林清志(※1)が7月に亡くなってしまい、同世代の仲間もほとんどいなくなってしまいました」
(※1)小林清志(こばやし・きよし):アニメ『ルパン三世』の次元大介役などで長年活躍した声優。吹き替えでも、1960~1970年代の西部劇などで活躍したジェームズ・コバーンほか、多数の持ち役を担当した。2022年没。
──羽佐間さんはテレビが洋画の吹き替えを始めた頃から声優の仕事をしてらっしゃいますが、声優という仕事が生まれてきた背景から教えていただけますか。
「古い話ですが、1953(昭和28)年にテレビ放送が始まって、映像に声をあてる“吹き替え(アテレコ)”は、少なくとも1956年頃から始まっています。当初は生放送で、1人の声優がすべての登場人物を何役も声を変えて演じ分けていたそうです。それから声優という仕事が少しずつ増えていって、ぼくは1958(昭和33)年頃から吹き替えの仕事に関わるようになりました。
その当時、ぼくは新協劇団(現・東京芸術座)という劇団にいて、修業中の貧乏役者でした。そんなとき、文化放送に勤めていた岡田太郎(※2)さんという幼馴染(おさななじみ)が、“ラジオドラマに出ないか”と声をかけてくれたのです。それが始まりです」
(※2)岡田太郎(おかだ・たろう):文化放送からフジテレビを経て共同テレビ社長、会長、取締役相談役を歴任。1973年に当時大スターだった吉永小百合と結婚。
「しばらくラジオをやっていたら、その放送を聞いたのか、日本テレビから“やってみないか”と誘われたのが『ホパロング・キャシディ』(※3)という西部劇の映画でした。岡譲二さん(※4)という映画界の大スターがメインで声をあてて、ぼくはアシスタントという立場で関わりましたが、おそらく、これがぼくの最初のアテレコです」
(※3)『ホパロング・キャシディ』:アメリカの作家クラレンス・E・マルフォードの小説に登場するカウボーイ。小説はその後、映画化、テレビドラマ化され、大ヒットした。
(※4)岡譲二(おか・じょうじ):昭和初期から活躍した俳優。日活、松竹、東宝、大映、東映と、数々の映画会社を渡り歩いたが、いずれにおいても主役を多数演じた大スターだった。1970年没。
吹き替えが始まったのは、当時の白黒テレビでは字幕が読みにくかったから
──そもそも、テレビで吹き替えが定着する前は、字幕だったんですか?
「そうです。ただ、1度に画面に出せるのが最大で“14文字×2行”の28文字までなので、表現には限りがある。しかも、当時はブラウン管のテレビで、今のように鮮明には映らないから、文字が読みにくかった。特に濁音などは見えなくなっちゃう。たとえば『ターザンの冒険』が『ターサンの冒険』になったり(笑)」
──視聴者が勘違いしてしまいますね。
「そういうこともあって、徐々に吹き替えに切り替わるようになり、声優が必要になっていったというわけです。それと、テレビで外国映画を放送するようになったのは、邦画を放送しづらかったという事情もありました」
──それはどういうことでしょう?
「当時の映画業界には“五社協定”という取り決めがありました。大手映画会社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)に所属する俳優や監督を他社が引き抜いたり貸し借りすることは許されない、という業界内の取り決めです。さらに、テレビの台頭によって、“テレビで映画を放送したら、映画館にお客さんが来なくなるじゃないか”という敵対意識が生じるようになり、五社協定がテレビ業界にも適用されるようになったんですよ。そのため、テレビ局が国内映画のフィルムを借りにいっても、協力してもらえなくなりました。
そこで、太平洋テレビ、東北新社のようなディストリビューターが登場し、アメリカやヨーロッパなど海外の映画フィルムを買いつけるようになったんです。テレビ局はそのフィルムを借りて洋画を放送するようになり、それに合わせて洋画や海外ドラマの吹き替え放送の数もどんどん増えた。以降、声優は引っ張りだこになり、忙しくなっていくんですね」
ミスしたら最初からやり直し! 28分ノンストップで吹き替えをしていた時代
──吹き替えが始まった頃はトラブルやご苦労も多かったんですか?
「ありましたねえ。当時は映像のフィルムのほかに、音を入れるオープンリールのテープが別にありました。録音テープを再生すると、最初の3分くらいしか映像にシンクロしないんです。途中から映像と音がズレていく。ゲーリー・クーパー(※5)の『真昼の決闘』なんて、放送ではピストルの打ち合いのときにはなんの音も出ないで、敵を倒した後、ヒロインのグレース・ケリー(※6)と向かい合う……、というときに“ダーン!”と銃声が鳴る、なんてこともありましたよ」
(※5)ゲーリー・クーパー:1930年代から1950年代にかけ、西部劇を中心に活躍したアメリカの映画俳優。『真昼の決闘』で2度めのアカデミー主演男優賞を獲得している。1961年没。
(※6)グレース・ケリー:アメリカで「クール・ビューティー」と称され、女優として活躍していたが、1956年にモナコ大公レーニエ3世と結婚して引退。王妃となった。人気ブランドの“ケリーバッグ”は彼女の名前にちなんで命名された。1982年没。
「徐々に改善されましたけど、音がズレてくるとスタッフが片方のテープを手でおさえてスピード調整しながら流していたほどです(笑)。せっかく、吹き替えのときに時間を合わせて録っているのにね。
もう1つ難儀だったのが、当時はオリジナルのフィルムを流して、ぼくたちはその映像を見ながら声をあてていたのですが、あの頃の機材ではフィルムを途中で止められませんでした。だから、録音テープは1本回り切るまで28分あるんですが、ぶっ通しでアフレコをしなければならなかったんです」
──もし、どこかで失敗したら?
「最初から録り直しです。部分的につなげることなんてできませんから。テープが回り切るギリギリのところで出番がある人なんて責任重大ですよ。ある若手声優が“そこに座れ”と一言だけしゃべる場面があったんですが、それが28分ギリギリのところだった。かなり緊張していたんだと思います、“そこに座れ”と言うべきところを、彼は“sit down!”と言ってしまった。吹き替えをするときは、イヤホンをして、原版のセリフを聞きながらやるんですが、彼は聞こえてきたままのセリフを叫んじゃった(笑)。これでNG。最初から録り直しです。かわいそうなことに、その人はそれ以降、呼ばれなくなってしまいました。
初期の頃はこういったNGがいくらでもありました。年配のあるご婦人は、老眼で台本の細かい字が見えなかったらしくて、徹夜で新聞紙に大きな字で自分のセリフを書いてきていました。本番になると、その新聞紙をめくるたびに“バリバリバリ”と派手な音がするので録り直しとか(笑)。
大雨が降った翌日、スタジオが浸水していたなんてこともありました。でも、その日のうちに音を入れないと放送に間に合わないということで、プロデューサーが全員に長靴を買ってきて、まだ水も引かないスタジオでアフレコを強行したりね。でも、楽しかったですよ。こうした手作りの時代を経て、吹き替えの技術が育っていったんです」
洋画の吹き替えが根付くようになったのは、テレビがまだ白黒で、字幕が鮮明に見えなかったからだったんですね。次回は、『ロッキー』シリーズのシルベスター・スタローンなど、羽佐間さんが吹き替えを担当した俳優や作品についての話を伺います。
◎第2回:羽佐間道夫さん#2「シルベスター・スタローンの獣のような声を出すために、わざと喉をからした」(11月11日18時公開予定)
(取材・文/キビタキビオ)
《PROFILE》
羽佐間道夫(はざま・みちお) 1933年、東京都生まれ。声優・ナレーター事務所ムーブマン代表。舞台俳優を志して舞台芸術学院に入学。卒業後、新協劇団(現・東京芸術座)に入団した。その後、おもに洋画の吹き替えの仕事から声優業に携わるようになり、半世紀以上に渡り第一線で活躍。『ロッキー』シリーズのシルベスター・スタローンほか、数々の当たり役を演じている。アニメーションやナレーターも多数こなす。2001年に第18回ATP賞テレビグランプリ個人賞(ナレーター部門)、2008年に第2回声優アワード功労賞、2021年には東京アニメアワードフェスティバル2021功労賞を受賞。自らプロデュースし、人気声優も出演するイベント「声優口演」の開催を15年にわたり続けている。