安室奈美恵、MAX、SPEED、DA PUMP、三浦大知をはじめとし、日本の音楽市場に大いなる影響を与えた『沖縄アクターズスクール』出身のアーティストたち。彼らの楽曲をカラオケで歌ってきた人たちも多いのではないでしょうか。
2000年代に入ってからは少しずつ活動を縮小していた沖縄アクターズスクールですが、’22年秋に沖縄で行われた「沖縄アクターズスクール大復活祭〜本土復帰50周年記念〜」を経て今年、復活! 再始動プロジェクトの一環として、新生『B.B.WAVES』のメンバーオーディションを開催中です。
そこでfumufumu newsでは、沖縄アクターズスクールの創設者にして社長であるマキノ正幸さんの娘として生まれ、ダンスアイドルグループ『SUPER MONKEY’S』として活動したのち、チーフインストラクターとして若手の育成を支えてきた牧野アンナさん(51)にインタビューを決行。10代でアイドルデビューするも、夢破れて再び沖縄へ。決して平坦とはいえない半生を語っていただきました。
MAXやDA PUMP、三浦大知ら卒業生が沖縄アクターズスクールの再始動に意欲
──牧野さんは現在、ご自身が主宰する、ダウン症候群の人を対象としたエンターテインメントスクール『LOVE JUNX』(ラブジャンクス)の運営と、沖縄アクターズスクール(以下:アクターズ)再始動の準備で、沖縄と関東の2拠点生活をされていると伺いました。最近はどのぐらいの頻度で行き来していますか?
「アクターズを再びやると決めてからは、月に2回くらいのペースで沖縄に戻っています。沖縄では現地在住のスタッフと打ち合わせしたり、支援していただいている方々にお会いしたり、インストラクターの育成プログラムを動かしたりと予定がびっしり。最近は、だいぶ忙しくなってきました」
──アクターズを復活するにあたって、きっかけとなったのは、’22年10月に開催された「沖縄アクターズスクール大復活祭〜本土復帰50周年記念〜」(卒業生のMAX、DA PUMP、島袋寛子、三浦大知らが出演)だったのでしょうか。
「そうですね。『大復活祭』が終わって、インストラクターのみんなでホテルの部屋に集まって1日を振り返っていたら、DA PUMPのISSAから“今からMAXのメンバーと行ってもいいですか”って連絡が来たんですよ。彼は、“今日が終わってほしくないから、部屋に戻りたくない”って言って、ずっと立ちながらビールを飲んでいるんです(笑)。それくらい楽しかったらしくて、“またアクターズスクールをやりましょう”って言うんですよ。(三浦)大知も終演後に“アクターズスクールは残すべき”と言ってくれましたし、ISSAの言葉を聞いた(MAXの)NANAも、“やりましょう! 手伝いますから”って。“そう言うけれど、本当に大変だからね。みんな必ず協力してくれる? ”って聞き返しましたけれど(笑)」
──卒業生たちにとっても、アクターズは大事な場所だったのですね。
「ありがたいことですよね。アクターズの全盛期から20年以上がたち、今度はみんな大人になっているので、アクターズのよかった部分と悪かった部分をちゃんと客観視して、そのうえで“やっぱりアクターズは最高の環境だった。今の自分たちがあるのは、アクターズがあったからだよね”と言ってくれて、私も同じ気持ちだなと思ったんです。“私ひとりでは無理だけれど、アクターズのみんなでならまたやっていける”という確信が持てたので、再始動を決断し、翌日には“私がアクターズを再び動かします”と、父に宣言しに行きました」
──アンナさんご自身も、小学生のころからアクターズに在籍されていますよね。どうして入学したのですか?
「母に無理やり入れさせられたんです(笑)。人見知りがめちゃくちゃ激しくて、人前になかなか出られないタイプの子だったので、心配した母が“申し込んできたから”って。1か月くらいは必死に抵抗していたんですけれど、仕方なく行ってみたら次第にハマっちゃったんですよね」
──子どものころから、ダンスが得意だったのですか?
「いえ。アクターズって、最初のうちは成人を対象にした俳優養成所だったんです。小学生はジュニアクラスっていう、おまけみたいな存在。ダンスもレオタードを着て踊るジャズダンスやバレエなどで、ポップスがメインではなかったですし、私は不器用で、初めからうまく踊れるタイプではありませんでした」
──嫌だったアクターズに通い始めて、何がいちばん楽しかったのですか?
「同年代の子たちと、みんなでワイワイしながらひとつのものを作り上げていく作業が楽しかったんですよね。11歳で入ってから、途中で抜けたり、指導者側に回ったりはしているんですれけど、完全にアクターズを辞めたのは30歳のときです」
15歳でアイドルデビュー。生意気になりすぎて1年で事務所を退所した過去も
──入学して5年後の’87年、アイドル歌手として『Love Song 探して』でデビューされていますが、当時のことは覚えていますか?
「はい。14歳で東京に出て、15歳のときにデビューしました。デビュー当時から、とにかく周りがちやほやしてくれたんです。例えばどこかに営業の挨拶に行くとなると、レコード会社のおじさんたちが10人くらいついてきて、みんな優しくしてくれる。最初のうちは毎回“ありがとうございます”と思っていたんですが、だんだん、よくしてもらうことが当たり前になっていった。だから周りから少しでも気を遣ってもらえなくなると、“みんな何やってんの”っていう気持ちになっていくんです。そんな感じで、あっという間に勘違いしてしまいましたね」
──思い描いていたアイドル像と実際の芸能活動にギャップはありましたか?
「かなりありました! 今みたいにSNSで情報が入る時代ではなかったので、“デビューした人はみんな売れている”って思っていたんです。中森明菜さんや松田聖子さんのような大人気のアイドルがいる裏で、全然売れていない人がいるっていうことが想像できなかった。だから、“あれ、何で自分は『ザ・ベストテン』に出られないんだろう”みたいな(笑)」
──芸能界のキラキラした部分だけを想像していたのですね。
「しかも、まだ子どもでしたから、スタッフに対してそのイライラをぶつけてしまっていた。売れていないうえに態度も悪いし生意気だったから、デビュー2年目を迎えたとき、事務所が“次の新人に力を入れていこう”っていう方針に変わったんです。代わりの新人を紹介されたその日から、その子の周りにすべてのスタッフがついて、私への手厚さは一気になくなり……。あの、世界がガラッと変わった瞬間は、今でもしっかりと覚えているくらい衝撃でした」
──父であるマキノさんは当時、どのように言っていましたか?
「“お前はチャンスをもらったのに、何の努力もしないで悪態ばかりついていた。周りの大人はお前のことが好きで優しくしていたわけじゃなくて、仕事だから、いかにお前に機嫌よくやってもらうかを考えて動いていただけだ。こうなったのはお前のせい”と言われて、そのとおりだと思いました。結局そのあと、父に事務所とレコード会社との契約を打ち切ってもらったんです。父は“アクターズに戻って、いちからやり直せ”と言いましたが、私はもう、沖縄に帰るのが恥ずかしくて……」
──周りの期待を背負って上京したら、なおさらでしょうね。
「当時、沖縄からデビューすると、空港で大勢の人たちに“バンザーイ!”って応援されながら送り出されるんですよ(笑)。周りもデビューしたらみんな人気が出ると思っているから、売れないで帰るなんて、どんな顔をして戻ったらいいのかわからなかった……。なので事務所を辞めてからも、半年くらいは原宿でバイトしながら、ダンスレッスンを受けに行くっていう日々を送っていました」
──そこから、どのように持ち直されたのでしょうか。
「沖縄に遊びのつもりでふらっと行ってアクターズを覗いてみたら、後輩だった子たちが自分よりも実力をつけて輝いていて、 “私、何やっているんだろう”っていう気持ちになりました。落ち込んでいたら友達が、“またアクターズで一緒にやろうよ”って言ってくれて。“私のことを、みんな変な風に思わないでいてくれるんだ”と感じて、帰ることができたんです。それからは、“二度と後悔しないように死に物狂いでやろう”って、強い覚悟を決めました」
アクターズでは指導者も兼任するように。再びデビューのチャンスを迎えるも……
──アクターズでの第2章が始まったのですね。
「このときから、父は私に対してものすごく厳しくなりました。人前で恥をかかせようと、みんなの前で言ってほしくないことをバンバン言うんですよ。何度ほかの生徒の前で土下座して謝らされたか、わからないですね……。でも悪意があったわけではなくて、無駄なプライドが邪魔してカッコつけている私を、1回ぜんぶ壊そうって思ったみたい。私は、今ここを辞めてもほかでやっていけないことが、もうさんざんわかっていたので、とにかく必死に食らいついていました」
──そこから、『SUPER MONKEY’S』(スーパーモンキーズ。安室奈美恵さんやMAXのメンバーも在籍していたダンスアイドルグループ。以下、モンキーズ)のリーダーとして’92年、20歳のころに再デビューすることに。
「まず、アクターズは’83年に開校したんですけど、そこから安室奈美恵がブレイクするまでに10年くらいかかっています。父は“沖縄の子たちの才能はすばらしいはずなのに、もう一歩、先に行けない”とずっと悩み、育成方法を変えていくべきではないかと考えていました。そこで、のちにモンキーズのメンバーになる子たちが10歳くらいでアクターズに入ってきたころ、歌やダンスのレッスン以外に、メンタルトレーニングもスタートしたんです。父は奈美恵をひと目見て、“これだけの逸材にはもう出会えないかもしれない。この子で勝負をかける”と言っていたので、そうとう気合いが入っていたと思います」
──そうして新たな育成法が組まれるとともに、奈美恵さんやアンナさんを含む、SUPER MONKEY’Sのメンバーが決まっていったのですね。
「周囲と支え合い、高め合うことを覚えるにはソロよりグループがいいだろうということで、最初にモンキーズの前身となるグループができて、私がリーダーを務めることになりました。レッスン後に2、3時間と話し合う日も多くて、歌って踊る時間よりも、そっちのほうが長かったくらい。当初の狙いどおり、メンタルを鍛える時間を大事にしたんです」
──テクニックの面でいうと、何か工夫された部分はありましたか?
「歌とダンスでは、激しいパフォーマンスをしても声がぶれない、マイケル・ジャクソンのような海外のアーティストの研究をしました。ビデオを見ながら父が私に指導するのですが、私は身体が思うように動かない。父は天才型だったので、何でもすぐできてしまう。だから父は、“できない理由がわからない”って言うんです。でも、“お前の場合は、できないところからできるようになるプロセスをたどれるから、この先、それを人に教えられるようになればいい”と。もともと沖縄に戻ってきて以来、父から“お前は表舞台に立つよりも指導者向きなんだ”と言われて、インストラクターもやっていたんです。振付とか、生徒の面倒を見たりとか、モンキーズのメンバーへの指導もしていたんですが、当時の自分にとっては、“指導者=本当に地味な裏方”みたいな印象だったので、仕方なくやらされているっていう気持ちでした」
──そんな中、モンキーズで無事に再デビューできてよかったですね。
「モンキーズがデビューするとなったとき、父は私をメンバーから外そうと決めていました。でも私はまたデビューして、芸能界で成功したい。もう1回挑戦しないと絶対に後悔するっていう思いがあって抵抗したんです。父から“(お前がレッスンを見ている)子どもたちを置いていくのか”ともキツく言われましたが、プロダクションの社長が、私がいるほうがほかのメンバーも安心だろうと言ってくれたこともあって、一緒にデビューできることになりました」
「奈美恵には、絶対に敵わない」2度チャレンジしたからこそわかった“現実”
──『天才・たけしの元気が出るテレビ!! 』(日本テレビ系のバラエティ番組。’85年~’96年放送)に、モンキーズが琉球空手少女として出演していたのを覚えています。当時、アーティストでなくタレントのような扱いをされたりもすることを、どう感じていましたか?
「私は二度目のデビューで、芸能界のことも、ある程度知っている。だからこそ今回は、“売れるならなんでもやってやろう”と思っていました。もともと空手は全然やっていなかったんですが、ただ歌って踊るだけではフックがないということで、“空手でみんな黒帯が取れたらデビュー”って言われたんです。そこから10か月くらい、朝と晩に道場に通って、5人全員で黒帯が取れるまで頑張りましたね」
──あのテレビ出演には、そんな裏話も隠されていたのですね。牧野さんは’92年の11月、メデビューから約2か月後にモンキーズを脱退されていますが……。
「再びデビューした際、すでに指導者側だったこともあり、ほかの生徒よりうまく踊れるし、歌も歌えるという自負がありました。でもモンキーズとして活動を始めると、技術的なうまさはあまり関係なくて、要はその子に魅力があるかどうかが重要だということを実感したんです。例えば、よそのプロデューサーがライブを見に来たときに“いいね”って言われるのは、絶対に奈美恵なんですよ。5人メンバーがいるのに、ほぼ100%と言っていいほど、奈美恵」
──デビュー当時から、安室さんは際立っていたのですね。
「ステージに立って踊っているときも、お客さんが誰を見ているのかって言ったら、ほぼ奈美恵なんです。“なるほど、才能ってそういうことなんだ”って実感しました。カリスマ性や人を惹(ひ)きつけるオーラみたいなものを持っている人が、この世界で生きていくべき人なんだなって。
それから、奈美恵はとにかく歌とダンスが好きで、ステージ上でなくてもずっと歌っているし、ずっと踊っているんですよ。彼女の中で歌とダンスって生活の一部で、“練習”っていう意識がない。私が“しょうがないから今日も練習しておかなきゃ”、“こんな狭いイベント会場で歌うのやだな”って思っているところを、彼女はうれしくてしょうがなくて、楽しんでやっているんです。しかも私は当時20歳ですが、奈美恵は13、14歳くらいで、伸びしろしかない。そんな彼女を間近で見ていて、“これは絶対に敵わないな”って悟ったんです。それからは、自分がこの世界にいたら、どんどん苦しくなってくるだろうなって感じました」
──そこからグループの脱退につながるのですね。
「“自分が向いているところで生きていくべきなんだ”って決意してからは、父にすぐ“すみません、やっぱり私は表舞台向きの人間ではありませんでした。あなたの言葉が理解できました。辞めて戻りたいです”って連絡しました」
──芸能界を退くのは、一度目のときとは心境が違いましたか?
「それはもう、全然違いますね。二度目は“やるなら絶対にトップに立つ”と思っていたし、もうこれ以上できないっていうくらい努力もしたという気持ちがありました。そのうえで、“奈美恵はトップに立てるけれど私は立てない”っていうことがスタートの段階でハッキリと見えたので、諦めがついたというか……。でもそれは、実際に再デビューをしなかったら、確実にわからなかったことだと思います」
まるでドラマを観ているような、牧野さんの人生。続くインタビュー第2弾、第3弾では、再びアクターズに戻り、チーフインストラクター及びマキノ正幸の娘として非常に厳しい経験を積んできた中での思い出や、振付を数多く担当したAKB48グループにまつわるエピソード、アクターズの今後について、じっくりお聞きしています。
(取材・文/池守りぜね)
【PROFILE】
牧野アンナ(まきの・あんな) ◎振付師。ダウン症のある方のためのエンタテインメントスクール『LOVE JUNX』代表。1971年12月4日生まれ。日本映画の父と呼ばれたマキノ省三を曽祖父に持ち、祖父は映画監督マキノ雅弘、祖母は女優の轟夕起子、親族に長門裕之や津川雅彦という芸能一家に生まれる。父・マキノ正幸の仕事の都合で沖縄に引っ越し、沖縄のアメリカンスクールで学生時代を過ごす。父が創設した『沖縄アクターズスクール』に入学し、『SUPER MONKEY’S』としてデビューしたのち脱退。以降、チーフインストラクターとして生徒の指導にあたる。’02年、日本ダウン症協会のイベントをきっかけに退職し、同年『LOVE JUNX』を開業。また、AKB48グループの振付を多数担当し、公演もプロデュース。’22年からは、沖縄アクターズスクールの再始動に向け尽力している。
◎沖縄アクターズスクール公式Instagram→https://www.instagram.com/actors_school1983/
◎沖縄アクターズスクール公式HP→https://o-actors.com/
【INFORMATION】
沖縄アクターズスクール『NEW B.B.WABESオーディション』開催中!
沖縄アクターズスクールの生徒でありながらCDデビューし、レギュラー番組を持ち、CM出演、漫画化なども果たしたB.B.WAVESを令和に再結成!
沖縄在住の小4〜高3の男女であれば、歌・ダンスの経験は不問。締切は2023年3月12日。