バラエティー番組からドラマ、映画と縦横無尽に駆け巡るシンガーソングライターの泉谷しげる(75)。また『Dr.コトー診療所』(フジテレビ系)や『女王の教室』(日本テレビ系)などドラマや映画に欠かせない役者として存在感を発揮している。
今回は、泉谷さんの原点ともいえる音楽活動を主軸に、ギターを始めたきっかけや70年代のフォークブーム、フォーライフ・レコード設立の経緯などお聞きしました。
恋愛よりもアコギ! フォークとの出合いで人生が一変
──最初はフォーク歌手としてデビューされたのですよね。
「もともとは漫画家を目指していたんだけれど、フォーク集会(※1)を見てショックを受けた。自分の中で事件が起きちゃったんだよね。同じギターでエレキブームがあったけれど、フォークは全然違う。ギターを持って歌って、言葉が突き刺さってくる。これはもう大事件なわけなんですよ!」
※1:ベトナム戦争中の1969年に新宿駅西口地下広場に若者が大挙した反戦集会。フォークソングの生演奏が行われた。
──エレキギターとフォークは何が違っていましたか?
「エレキギターはごまかしがきくけれど、アコースティックってグランドピアノを弾くのが難しいのと一緒で、演奏レベルが高いんですよ。当時はみんな“モテたくてギターを始めた”って言っていたけれど、俺はフォークと出合っちゃったから人生が変わったのだと思う。もっとギターがうまくなりたいのなら、女と遊んでいる暇はないのよ(笑)」
──それほどまでに、フォークに夢中になっていったのですね。
「自分にとってはフォークとの出合いが大事件だったから、もっとアコギがうまくなりたかった。18歳くらいのときに、俺のことを好きだって言ってくれる人もいたんだけれど、“音楽と私、どっちが大事?”って聞かれたから、“ギターに決まっているじゃねぇか”って言っちゃって別れたんだよね(笑)」
──今のようなアコギを弾きながら歌うスタイルになったのは、なぜですか。
「孫悟空みたいにめちゃくちゃなやつが、ギターを持って弾いていたら面白いかもしれないって思いついたんだ。本当は野獣のように歌いたかったけれど、実際は身体も丈夫じゃなかった。しかも俺は足が悪いから、歌うと身体にも負担がかかるし、直立のバランスが取りづらい。だから、片足に重心をかけてまっすぐ立てるような姿勢を自分で見つけたんです」
──80年代のバラエティー番組では、泉谷さんがヤギに週刊誌を食べさせたり、過激なパフォーマンスをされていたのが記憶にあります。
「俺は覚えていないけれど(笑)。昔はお客さんに水を撒いたりもした。ニヤニヤしながらポケットからマヨネーズを出したときは、お客さんから悲鳴が上がったね。俺ら団塊の世代は、自分で何かを仕掛けていかないと、埋もれてしまうくらい人口が多い。周りも足を引っ張るような連中だから、その中から抜きんでるには卑怯(ひきょう)な手を使わないといけない。友達を裏切るくらいのことをしないと、前には出ていけなかったんだよね」
──そこまで自由にできた背景には、“こうなりたい”という強い意志があったのですか?
「身体が弱いせいもあって、“絶対にバケモノになろう”っていう気持ちが強かった。身体が弱い自分が嫌だし、ただつらかった。だから誰かの首を絞めたり、何かを蹴とばしてでも暴れたんだよ(笑)。あのころ、テレビに出て活躍していた人たちは、みんな選ばれし人たちでバケモノだったんです」
──どういう部分が、バケモノだと感じましたか?
「第一線で活躍している人は、みんな異常体質ですよ。朝から晩まで飲むパワーもあるし、音楽以外の活動もやる。そういう人が病気で倒れるのは、よほどのことなんだろうなって思う。だから“ちょっと具合が悪い”って言っているのは、たぶん仮病だよね(笑)。昔、作詞家の岡本おさみが主催した吉田拓郎のコンサートは、肝心の主役である拓郎が“雨が降っているから行きたくない”って言って、来なかったんだよね。こっちはゲストなのに、ずっと演奏して場をつないだんだから(笑)」
忌野清志郎さんをはじめ、同年代のミュージシャンとの逸話
──生前に泉谷さんと交流があった忌野清志郎さんは、アンコールの声が鳴り響く中、会場から去っていたという逸話を聴いたことがあります。
「彼は早く帰りたかったんじゃないかな(笑)。彼はね、お客さんを楽しませるようなエンタメは好きじゃなかった。俺は、“アンコール”って盛り上がる前にステージに出て行っちゃうけれど(笑)。だって楽屋まで戻ってまた出ていくのが面倒くさいんだよ」
──清志郎さんと泉谷さんはタイプが違うように見えますが、仲がよかったんですよね。
「でもね、清志郎のことはよくわからなかった。先に帰ってしまうのも宴会がしたいためでもないし。ステージを降りたらオンとオフがはっきりしたタイプだったのかもしれない。周りが近寄りがたいって言っていたけれど、俺はベッタベタに近づいていたからね(笑)。彼は年下だけれど革命的な人だったから尊敬していた」
──泉谷さんが組んでいた「下郎」(※2)は、チームワークもいいように見えました。一緒にバンドをやっていたミュージシャンとの関係はいかがですか。
※2:泉谷さんが90年代に組んでいたバンド。メンバーはアナーキーの藤沼伸一、ルースターズの下山淳、ボ・ガンボスのKYON。
「藤沼や仲井戸(麗市)は、音楽にストイックだし精神でつながれるけれど、吉田健と村上“ポンタ”秀一は打算(笑)。彼らは毎回、俺のお金で宴会をして、お姉ちゃんをはべらせていたからね」
──泉谷さんにとってバンドとソロは違いますか?
「一般的にバンドが解散するのって、だいたいギャラだね。ギャラの配分で揉めてしまうんじゃないかな。あとは自分のほうが目立ちたい。だから俺は自分のバンドのことを“奴隷”って呼んでいます(笑)。俺の言うとおりやらなかったらクビです」
──泉谷しげるwith LOSERが再結成した2012年に『ARABAKI ROCK FEST.』でライブを観たのですが(泉谷さんは当時63歳)、ひどい悪天候の中、アンコールを行うほどパワフルでしたね。
「死ぬかと思うくらい寒かったよな。それなのに、客が上半身裸になっていて、熱気で湯気が出ていた(笑)。その光景に、俺のほうが感動したんだよね。あれが音楽フェスだよ! あの後も何度かアラバキには出ているけれど、あれを超える感動はないね……」
──音楽フェスにも精力的に出演されていますが、どういう思いがありますか?
「今の若い人たちも、昔と変わらずライブを求めている。でもみんな現実が厳しいと思うんです。だからエンタメは現実逃避させてあげないといけない。だってさ、“現実を見ろ”って言われたらロクでもねぇ事件しかないし、嫌だよね(笑)。音楽フェスは人は集まるけどチケット代が高すぎるから、“失敗しろ!”って思うときもあるけれど(笑)」
フォーライフ・レコードを設立。フォーク歌手がテレビに出演しなかったわけとは
──今ではインディーと呼ばれる自主制作で音楽活動を行うのは珍しくなくなりましたが、泉谷さんがかかわっていたフォーライフ・レコード(※3)はその先駆けともいえるのではないでしょうか。
※3:フォークシンガーの小室等・吉田拓郎・井上陽水・泉谷しげるの4人が1975年に設立したレコード会社。
「俺は頼まれたから後乗りで入ったのだけれど、フォーライフは’75年に作った。それまでは歌手って、芸能界の中でも立場が低かったんだよ。特にフォークをやっている連中は、テレビ局にもジーパンのような普段着で来やがるし、挨拶はしねぇし、反抗するし。周りからしたら大っ嫌いな存在だったと思うよ(笑)。拓郎が芸能界の先輩からいじめられて“テレビには出ない”って言ったのが、逆に世間から“カッコいい”って思われたんだよね」
──当時のフォーク歌手がテレビに出演しなかったのには、そういう背景があったのですね。
「俺はエンタメが好きだからテレビ出たいなって思っていたけれどね(笑)。でもフォーライフが登場したことで、ミュージシャンに著作権を持とうという意識が根づいたし、歌手の地位が上がったのはよかったって思う。フォーライフとはケンカ別れしたんだけれど、それは無駄ではなかった」
──泉谷さんと同時期から活動されていた方は、ホールクラスでコンサートをされたりしています。泉谷さんはライブハウスを中心に活動されている理由はどうしてですか。
「拓郎は“小さいところではやりません”とはっきりと言っていた。これは目標が俺とは違うんです。人気と集客数と名誉がそろった場所に行きたいのか。とにかく音楽をやっていきたいのか。それは物事のとらえ方の違いだと思う」
──泉谷さんが、場所などにこだわらず歌い続けている姿勢がすごく伝わってきます。
「だってライブをやらなくなっていったら、どんどんテクニックも落ち込んでしまう。人気がなくなると、ステージングが悪くなったりするミュージシャンもいるでしょ。周りは“なんで?”って思うけど。誰だって最初は人気なんてなかったはずなんだよ。それなのに、名誉とか女にモテたいとか思うとおかしくなっていく。俺はさっきも言ったけれど、モテたいって思っていないからね。とにかくバケモノになりたい」
──ちなみに、ファン層は男女どちらが多いのですか。
「最近、女性も増えてきているけれど、みんな男前だよね。でもやっぱり女性は少ないな。9割男だね(笑)」
──ライブハウスの魅力って何だと思いますか?
「俺のファンってさ、俺がフェスに出ても観に来ないんだよ。高い金を払って、オーロラビジョンで観たくないんだって(笑)。ファンならさ、近くで観たいわけでしょ。だから俺のライブはライブハウスがちょうどいいんです」
──ライブ自体が好きなのですね。
「俺は武道館のステージに立った翌日に、ライブハウスに出るからね。もう猛獣のようなバケモノになれる場所を探しているだけなんです。日に日に年は取るし、とにかく傷口を舐めながらでも鍛えていこうっていう意思がないと、こんな活動は続けられない。俺のお客さんはうるさいから、あいつらをギャフンと言わせるのが俺の目標。ちゃんと自分を愛して、目標も持っていれば身体も作られる。俺からは“てめぇら怠けてるんじゃねぇぞ!”っていうメッセージを見せつけたいんです」
◇ ◇ ◇
前編では、泉谷さんのキャリアのスタートから、ライブにかける思いを語っていただきました。後編では、90年代から続けている募金活動や俳優業についてお聞きします。
【*後編→泉谷しげる「売名の何が悪い!」全国で続ける被災者支援への思いとは。“50代の迷いの時期”を超えた今の野望】
(取材・文/池守りぜね、編集/小新井知子)
《PROFILE》
泉谷しげる(いずみや・しげる)
1948年青森県生まれ。シンガーソングライター、俳優。’71年にライブアルバム『泉谷しげる登場』でフォークシンガーとしてデビュー。『春夏秋冬』『光と影』『’80のバラッド』『吠えるバラッド』など多くのアルバム、楽曲を発表。俳優としてドラマ『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』『金曜日の妻たちへ』『Dr.コトー診療所』、映画『Fukushima 50』『いのちの停車場』などに出演。著書の新刊『キャラは自分で作る どんな時代になっても生きるチカラを』(幻冬者)が発売中。
【ライブスケジュール】
8月26日(土)京都・磔磔「全力ライブスペシャル3時間!」※配信あり
9月9日(土)なにわブルースフェスティバル
9月10日(日)金沢・北國新聞赤羽ホール
「泉谷しげる全力ソロライブ90分」
9月15日(金)溝ノ口劇場
9月29日(金)所沢MOJO
10月15日(日)小田原quest
10月30日(月)石垣島すけあくろ
10月31日(火)宮古島GOOD LUCK!
11月1日(水)那覇桜坂劇場
*詳しくはホームページで