ベースと一緒に佇む彼の名はグレートマエカワ。ミュージシャンの岡崎体育さんとラグビー日本代表の稲垣啓太選手が共演するCMで使用された曲『深夜高速』を演奏しているバンド「フラワーカンパニーズ」(以下、フラカン)のベースと言えば、ピンとくる人が多いのではないでしょうか。
今年で結成33年になるフラカンは、9月23日に5年ぶり8回目の日比谷野外音楽堂公演も成功させました。結成以来メンバーチェンジなしという偉業を成し遂げている裏には、数々の困難があったといいます。今年53歳を迎えたマエカワさんに、その平坦とは言い難いバンド活動の歴史を語ってもらいました。
マエカワさんを中心にフラカンメンバーが出会う
──音楽への興味はいつ頃からあったのですか?
「僕が小学生の頃って、歌謡曲の全盛期でベストテン番組がたくさんあったんです。中学になったら洋楽も聴くようになった。でも音楽の授業で使うような楽器はうまくなかったから、成績は2とか1(笑)。だから自分が楽器をやるとは思っていなかったんだけれど……。僕には7つ上の兄貴がいるんですけど、大学生の時にバンドをやっていて、家にベースがあったんです。僕が中2の時に仲がいい友達の中に、ギターが弾けるやつと歌がうまいやつがいたので、“じゃあ、僕の家にベースあるから、バンドをやってみるか”って感じでバンドを始めたんですよ」
──フラカンのメンバーとバンドを始めたのですか?
「その時は違う友達です。メンバーの鈴木(鈴木圭介・ボーカル。フラカンでは作詞も手がける)と小西(ミスター小西・ドラム)は中3の時に同じクラスになって。当時はクラスにいる男子20人のうち15人がバンドを組んでいるっていうくらいブームで、鈴木と小西は同じバンドでやっていたんですけれど、僕とは違うバンドだったんです」
──高校に入ってからも音楽は続けていたんですか?
「バンドは続けていましたね。高校に入学したら、竹安(竹安堅一・ギター)と出会って、好きな音楽の話をしたりするうちに仲よくなった。竹安には“バンドをやっているから見に来て”って言っていたんだけど、竹安のお母さんがギターを弾いていたみたいで、そのうち彼もやってみようかなって感じでギターを始めたんです」
──フラカンのメンバーが、マエカワさんを中心として出会うのですね。
「みんな高3になると、受験があるから一旦、バンドは解散しました。大学生になったら竹安を誘って、もともと組んでいたメンバーとバンドをやろうって思っていたら、俺以外みんな受験に落ちてしまったんです(笑)。1年待ったらバンドができると思っていたら、今度は彼らがほかの地域の大学に行ってしまった。ちょうどその頃、鈴木と小西のバンドが解散しちゃって。それまで仲はよかったけれど、彼らと一緒にバンドをやろうっていう発想はなかったんですよ」
──音楽性が違ったのですか?
「俺らはハードロックとかブルース寄りの渋いって言われるようなことをやりたくて、鈴木の好みはパンクバンドみたいな感じで、キャラが違ったんですよね。でもローリング・ストーンズとか、共通で好きな音楽もあったから、“俺の友達にギターを弾けるやつがいるから、一緒に1回スタジオに入らない?”って言って鈴木と小西の2人を誘ったんです」
──フラワーカンパニーズ誕生の瞬間ですね。
「1989年の4月23日に初めて、スタジオに入ったのかな。その1週間前に近所のファミレスに集まって、鈴木と小西に“これが竹安です”って紹介して顔合わせをしていて。スタジオではひとり1曲、やりたい曲を演奏しました。そのまま、面白いから来週ももう一回やろうっていう感じになって。そこからオリジナル曲も増えて、ライブをやろうかっていう話になった。“ライブをやるならバンド名を決めなきゃいけない”という流れから、フラワーカンパニーズという名前を付けたんです」
──偶然からのスタートなのですね。
「結成した翌年の’90年1月から、地元のライブハウスにレギュラーでライブをするようになりました。当時はまだTシャツやタオルとかの物販を売っているバンドとかはいなくて、カセットテープを売っている人がいたくらい。それでフラカンも結成の翌年にカセットテープを作ったんです。あ、でもその年にはコンテストにも出場しているので、コンテスト用に作ったのか、物販用に作ったのかはさすがに忘れちゃいましたが……」
──コンテストにも出場されているんですね。
「’90年に『TOYOTA YOUNG MUSIC FESTIVAL』っていうのにエントリーして優勝しました。高校の時は、俺のバンドと鈴木のバンドが10代向けのコンテストにそれぞれ出たんですよ。鈴木はその当時、『ベストアイドル賞』をもらっていました(笑)」
──フロントマンとしての素質が当時からあったのですね。
「鈴木のバンドは、ライブをすると女子高生が100人ぐらい来たんですよ。僕らのバンドは、竹安くらいしかお客さんがいなかったのに(笑)」
大学時代だけの音楽活動のつもりが、卒業後にプロを目指す
──結成当初から今のようなスタイルだったのですか。
「フラカンを始めて最初の1年くらいは割と可愛い感じの歌詞でしたよ。俺や竹安はそれが嫌だなって思っていたから(笑)。そんな時にエレファントカシマシの音楽に出会ったり、URC(注:アングラ・レコード・クラブ。フォーク歌手の遠藤賢司や三上寛が所属していた会員制のレコードクラブ)の復刻CDが発売されて、強烈な歌詞を書いている人たちの音楽をみんなで聴いて衝撃を受けて。そのあたりから、鈴木の歌詞も変わっていきましたね」
──音楽活動は順調だったのですか?
「鈴木は大学を卒業しても音楽活動をやっていこうと思っていたみたいだけれど。鈴木は『ベストアイドル賞』を取ったくらいなので(笑)、それなりに人気もありましたから。ワンマンライブができるようになったのが、結成して3年後くらいかな。親には申し訳ないけれど、大学に在学しているうちはバンド活動をやろうって思っていました。音楽で食べていけたらいいなって思いつつ、“そんなの無理だ”とも思っているから、大学4年の時に僕は進路に悩みました」
──就職せずに音楽で食べていこうと決めたきっかけはありましたか?
「’90年に出たコンテストで、ソニーの新人発掘の担当に気に入られて、東京のライブにも呼んでもらったりしていたんです。今と違ってCDを自分たちで出すって難しかったんですよね。だから“CDが出せるかもしれない”っていう話になった時、そこでもう就活はやめました」
──ライブなどでも手ごたえがあったのですか?
「ある時出たイベントで、フラカンがいちばん盛り上がって。翌日、母に“バンドやりたいから就職はしない”って話したんです。“え〜!”ってびっくりされて、悲しい顔をされたのは忘れられません……。でも、“よし、バンドでやっていこう”って思いましたね」
──私がフラカンを知ったきっかけは、音楽ライターとして活動されている兵庫慎司(フラカンのバンドヒストリー本著者)さんの『ロッキング・オン・ジャパン』のレビューを読んだのがきっかけでした。
「昔は音楽ライターが推しているアーティストを好きになるっていう文化がありましたよね。デビュー直後のツアーで福岡でライブやったらお客さんが7人で、僕らを何で知ったか聞いたら“兵庫さんファンなんです”って4人から言われたんですよ(笑)」
──まだYouTubeやサブスクがなかった時代だから、音楽雑誌の影響力が大きかったですよね。
「’94年に上京して、1年後にソニー内のアンティノスレコードからデビューしたんです。そこからデビュー2年目で『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(フジテレビ系で1994年~2012年まで放送されていた音楽番組)に出演できたから、運がよかったなとは思います」
──当時はテレビCMもよく見かけましたね。フラカンはすごくメディアに露出していた印象があります。
「タイアップも付いていたりしたからね。あの頃はスペースシャワーTVでレギュラーもやらせてもらったりしました。今となってはプロモーション活動も、よくしてもらっていたと思いますね。最初のメジャー契約ではアルバムを6枚出して。4枚目の『マンモスフラワー』(’98年発売)がそこそこ売れたけれど、宣伝費をかけたから本当はもっと売れないとダメだったんですよね。それで“契約を終了することになった”って言われるんです」
レコード会社の契約終了。4人だけの体制に戻って再スタート
──2001年にメジャーを離れたわけですが、レコード会社からの契約終了は急に告げられたんですか?
「最初からアルバム7枚の契約だったけれど、7枚目のレコーディング中に、レコード会社から“うちからは発売ができなくなった”って言われたんですよ。レコーディングした音源は僕らにほぼあげる、くらいの価格で僕らに譲ってもらえたんです。ちょうど僕らが30歳を越えたぐらいの頃で、半年後ぐらいまでは給料を毎月1万円ずつ少なくしていくけど支給するから、その半年の間に続けるか辞めるか考えろと言われました。さらに、“今だったらまだ30過ぎだから、他のこともできるだろうし、バンド活動を続けるのならメンバー4人でやってみたら?”って言われて、“じゃあ考えます”って言いましたね」
──当時のバンドの雰囲気はどのような感じでしたか?
「5枚目のアルバム(『Prunes & Custard』1999年発売)の時期は、ライブでもMCをあんまりしなくなったんです。それまでちょっとクスッと笑えるような音楽が好きだったけれど、音も今までよりは硬派な感じで作った。そうしたら動員も少なくなるし、セールスも下がってきてしまって。ちょうどメロコアと呼ばれる新しい勢力がどんどん出てきていて、“そうなると俺たちの居場所はないな”と迷い始めました。音楽業界に対してちょっとやけっぱちになりそうなところもあったかもしれない。でもバンドに対して諦めがあったわけではなかったんですよ。ただ、“シーンに居場所がない”って感じていました」
──周りの環境も変わっていったのですね。
「6枚目のアルバム(『怒りのBONGO』2000年発売)のツアー後にマネージャーがいなくなったんです。物販やライブのブッキングとか制作をやるようになったのは、レコード会社も事務所もクビになって4人になってからかな。それまではPAや楽器のローディーをしてくれるスタッフもいたけれど、契約が切れてメンバー4人だけになったっていうのを全国のイベンターやライブハウスに電話して話したんです。全国をツアーで回りたいんだけれどどうしたらいい? って」
──マエカワさんがバンドのリーダーだったから、運営も任されたのでしょうか。
「リーダーだからというよりも、マネージャーやレコード会社の担当と運営に関して、もともと僕が話すことがやっぱり多かったんです。だから僕がやるようになったのも自然な流れですね。物販も最初は自分たちでやるのは正直カッコ悪いなとか思ってたんだけど、やってみたら“今日はこれがよかったです”っていうファンのダイレクトな声が聞けて、これはこれでありだなって。
2000年ぐらいの頃はメンバー4人で飯を食いに行くことは絶対なかったし、仲が悪いわけじゃないけれど、言いたいことはマネージャーに言ってもらうみたいな感じの空気もあった。でも自分たちでやるようになって、4人で話すし、ある意味、原点に戻ったところもあったと思う。だから、バンドでいけるとこまでやってみようっていう気持ちになれました」
言い出しっぺ体質で、バンドメンバーのパイプ役
──2003年の『RISING SUN ROCK FESTIVAL』(’99年から北海道石狩市で開催されている夏のロックフェス)に出演する際は、フェリーで行かれたんですよね。
「あれは僕が(主催者から)送られた資料をちゃんと読んでなかったんです。フェスに出られるだけでうれしくて(笑)。ライジングの前々日に新潟に行って、そこからフェリーに乗るぞって計算して、自分たちのライブのブッキングまでしたんです。あとで飛行機のチケットが支給されるって知ったんですが。それを見てない、バカすぎるだけの話なんですよ(笑)」
──いや、自力で行こうとされるのは人柄がよすぎると思いますが……。
「でも“フラカンは本当にハイエースに乗ってフェリーで来たぞ!”って喜ばれたのでよかったですけど。ブッキングに関しては、ツアーがきれいに組めた時の達成感がすごくあります(笑)」
──バンド内で作業の分担はされないのですか?
「僕や鈴木や竹安はパソコンが苦手だから、小西も得意じゃないけれど、他の3人よりはということで、ホテルを取るのは10年くらい小西が担当してました」
──竹安さんはパソコンなど得意そうに見えますが……。
「なんか頭よさそうに見える顔だよね(笑)。でもあいつのよさはそこじゃないから。鈴木には任せられないし、小西にも全部を任せる自信がない。だから自分でやったほうがいいっていう判断ですね」
──マエカワさんはみなさんのパイプ役というか、バンドメンバーがみんなマエカワさんところに集まっている感じですよね。
「もともとみんな、僕の中学と高校の同級生なので。最初に“バンドやろう”って言ったのも僕だから。言い出しっぺ体質なんですよ。小さい頃からみんなに声をかけて遊ぼうって呼びに行く役だったから」
活動継続のため、“バンド貯金”を始める
──バンド活動の費用はマエカワさんが管理されていたんですよね。
「レコード会社からはあと6か月で契約を終了するって言われたから、7か月目からは生活費が絶対必要だと思って、ライブでの収益などを貯めていました。1万円ずつ減っていった給料の最後の額が15万円だったので、毎月15万円×4人分を貯金から引き出して渡して。それで1年か2年ぐらいやっていたのかな」
──でも信頼がないとお金まわりは任せられないと思いますよ。
「僕も3人を信頼しているのと、僕が4人の中でいちばんお金に執着しているって思われているので(笑)。もともとお金は好きだし、金銭感覚がセコい人間でもあるから。だからズルをしないってわかっていると思うんです」
──フラカンは同級生同士のメンバーですが、マエカワさんはリーダー感ありますよね。
「こういう顔なので(笑)。顔年齢がね、老けているんです」
──(笑)。メンバー内で話し合うことは多いのですか?
「メンバー同士で話し合うことはほぼないですね。よっぽど大きい決め事がある時に“こういうふうだからね”っていう話はするけど。それこそ年1回、決算の時に話すくらい。それ以外だと話すことは最近なくなったかなあ(笑)」
──バンドを法人化したのは理由があったのですか?
「最初は会社組織ではなかったので、清算する時も個人の名前でやっていたんです。通帳も2つあって、1つは自分の通帳で、もう1つも僕の名義でバンド資金の通帳にしていました。2008年に、ソニー・ミュージックアソシエイテッドレコーズと改めて契約するときに、個人とは契約できないって言われて。事務所が法人じゃないと契約できなかったので、会社にすればいいって流れになったんです」
──そこから株式会社フラワーカンパニーズが誕生したのですね。
「自分たちで活動をしていて不自由は感じていなかったんですけど、今のままでは、どうしても宣伝が圧倒的に足りないからファンが増えにくいと感じていて。再メジャーになったアルバム『たましいによろしく』(2008年発売)は前のアルバムから2年4か月たっていたんだけれど、その間もずっと一緒にやってくれる人を探していました。最初にデビューしたアンティノスレコードでお世話になって信頼していた人がアソシエイテッドレコーズにいたこともあり、話を聞いたら面白そうだったので、またメジャーでやろうかなって思えたんです」
◇ ◇ ◇
第2弾では、2004年に発表され、今も新たなファンを獲得している代表曲『深夜高速』の誕生エピソードなどについてお聞きします。
【第2弾記事:フラワーカンパニーズの名曲『深夜高速』をグレートマエカワさんが語る「最初は歌詞を聴くのがつらかった」】
(取材・文/池守りぜね)
〈PROFILE〉
グレートマエカワ
1969年9月27日生まれ、愛知県出身。1989年、同級生の鈴木圭介(ボーカル)、竹安堅一(ギター)、ミスター小西(ドラム)とともにフラワーカンパニーズを結成する。1995年に1stアルバム『フラカンのフェイクでいこう』でメジャー・デビュー。2001年にメジャーを離れてTRASH RECORDSを立ち上げ、“自らライヴを届けに行くこと”をモットーに活動、ワゴン車1台で全国を回り、年間100本を超えるライヴ活動を展開。2008年にはメジャー復活を遂げ、2015年に開催した初の日本武道館公演はソールドアウトし、大成功を収める。2017年に再びメジャーを離れ、自らのレーベル「チキン・スキン・レコード」を設立し活動している。2022年4月23日、“メンバー・チェンジ&活動休止一切なし”で4人そろって結成33周年を迎えた。
☆フラワーカンパニーズ 全国ツアー『いつだってネイキッド’22/’23』全33公演開催!
◎フラワーカンパニーズ・ワンマンツアー『いつだってネイキッド’22/’23』
2022年
11月5日(土)茨城@水戸ライトハウス
11月6日(日)栃木@HEAVEN’S ROCK 宇都宮
11月17日(木)大阪@堺Live Bar FANDANGO
11月19日(土)広島@Live space Reed
11月20日(日)香川@高松DIME
11月27日(日)北海道@札幌PLANT
12月3日(土)神奈川@横浜F.A.D
12月9日(金)京都@磔磔
12月10日(土)京都@磔磔
※2023年のツアー情報は公式サイトのライブスケジュールページでご確認ください
【全公演共通】
チケット料金:前売4400円(税込/整理番号付/ドリンク代別)
チケット発売日:2022年公演は発売中、2023年公演は12月4日(日)10:00