20年以上、タイ語通訳・翻訳者として活動してきた高杉美和さんの仕事内容が一変したのは2020年のこと。BLドラマ『2gether』の大ヒットから始まった、タイドラマの一大ブームによるものだ。
『2gether』で大ブレイクを果たしたBright(ブライト)とWin(ウィン)が多くの女性の心をわしづかみにし、その人気がほかのタイBLドラマやタイ若手俳優陣へと波及していったのだ。
(インタビュー前編では、高杉さんが通訳・翻訳家になった背景や佐賀県にタイドラマを誘致したお話、タイ語の習得方法をお伺いしています→記事:タイドラマの大ブームを支えるベテラン通訳が、タイのエンタメ沼にハマるまで)
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『2gether』の魅力と日本人に受け入れられた理由
「『2gether』は、人の優しさがすごくにじみ出ている作品。本作のウィーラチット・トンジラー監督は、以前から面識があって過去の作品も見ていたのですが、人を見る目がとにかく優しくて、セリフに頼らない間の取り方が絶妙。
Scrubb(スクラブ)というバンドの楽曲が随所に流れるのですが、音楽の使い方もいい。ドラマ全体から感じられる優しさが、当時、コロナで不安を抱えていた日本人の心にすっと入っていったのではないでしょうか」
高杉さんの仕事も、イベントやファンミーティングのために来日するタイ俳優の通訳、映画の字幕監修や舞台あいさつの通訳など、タイの文化芸能関係に関する仕事がメインになっていった。
2020年には、日本で初めてのタイドラマ専門誌“タイドラマガイド「D」”を始め、来日する俳優インタビューの通訳も多数担当している。
それまでビジネス関係や映画祭の通訳・翻訳や、「STAY佐賀」での撮影サポートなどで培ってきたスキルが、最大限活用される機会が到来したのだ。一方で、タイの若者言葉の勉強や、タイドラマや映画のチェックなど、今まで以上に吸収しなくてはならないことが増えていく。
「以前に比べると、タイ語の翻訳ができる人はかなり増えました。ただ、タイ語と日本語の通訳で、同時あるいは、ほぼ同時通訳ができる日本人の通訳者は少ないです。タイ人俳優のイベントなどでは、数人の通訳でチームを組むこともあるのですが、私は必ず事前に全員で“勉強会”をしています」
情報のアップデートが正しい通訳につながる
勉強会では、通訳をする俳優のドラマを集中的に見て、俳優が飼っている猫の名前や好きなものといった情報など、あらゆる知識をインプットしていくという。
「ひとつでも多く知っていることが、正しい通訳につながります。例えば、俳優に“好きな食べ物はなんですか?”という質問が来たら、簡単な質問と思うかもしれませんが、実はすごく難しい。
タイ人は日常的にトムヤンクンやグリーンカレーなど、日本人が知っているタイ料理だけを食べるわけじゃないから、カピ(エビの発酵調味料)や、ナムプリックヌム(唐辛子のディップ)、カノム・トーキョーとかが出てくるわけです。タイ料理のことを、深く知らなければ通訳できません」
ちなみに、カノム・トーキョーは直訳すると「東京のお菓子」。薄いホットケーキのような生地で、カスタードクリームやソーセージなどを巻いて食べる屋台料理。トーキョーという名前はついているが、もちろん日本にはない。
「タイに行ったときには、こうしたタイ料理を食べたり、ドラマのロケ地を回ったりしています。知っているほうが通訳するときに、よりファンの方にも俳優の言葉を伝えやすいからです」
タイの俳優たちから見た日本のファンに対する印象
タイ人俳優のファンミーティングやイベントでの通訳を担当する高杉さんから見た、彼らの様子はどのような感じなのだろうか?
「通訳業務以外で、俳優さんと話をすることはほぼないので、ファンミーティングやその前後に行われる雑誌などの取材で、素顔が垣間見えます。タイの俳優さんの、ほぼ全員が言っているのは、“日本人のファンはみんなかわいい!”ということです」
タイ人俳優はファンとの距離が近いのが特徴で、SNSで交流したり、ファンミーティングで直接会話したりすることもしばしば。タイ人女性ファンは少々強引な人も少なくないという。
「ファンミ(ファンミーティング)や取材時には、“日本のファンは僕たちのことを尊重して、少し離れたところからはにかんで見てくれている”“最前列にいるファンが、オペラグラスで僕たちを見ていたのがかわいい”“手作りのボードにタイ語で、一生懸命にメッセージを書いてくれるのが嬉しい”などと、よく言っていました。
それはファンサービスで言っているのではなくて、本当にそう思っていて、日本のファンのことをすごく好意的に受け止めています。神様かよ! と言いたくもなります(笑)」
だからこそ、高杉さんも彼らの言葉をできるだけそのままファンに届けたいと思っている。
「タイ語でナーラックといえば、かわいいという意味ですが、“素敵です”と訳す人もいます。それでも間違いではないのですが、好きな俳優さんに“かわいいね”と“素敵だね”のどちらを言われるほうが嬉しいですか?
また、彼らがナーラックを5回連呼したら、私も同じ回数だけきっちりと“かわいい!”と言うようにしてるんです」
タイの映画監督から見た日本のファンの印象
彼らを間近に見ていると、日本でも、タイ人俳優たちが、今まで以上にファンサービスに力を入れてくるようになったと話す高杉さん。
「ある俳優さんは、Q&Aコーナーで使う質問を事前に受け付けるのではなく、その場で書いて箱に入れてもらい、箱から引いた質問の紙を持って、質問者の目の前で答えていました。鬼サービスにアクセルがかかってきたな、と感じました。
また別のファンミでは、会場のライトをつけるように要望し、2階席のいちばん奥の席に座っているファンにまで視線を送っている俳優を、目の当たりにしました。その他、タイの俳優のファンミでは、自分の持ち歌のサビ部分を、一部日本語の歌詞に翻訳して歌うことが多く、それをファンが聴くと、会場は毎回悲鳴に包まれます。
タイ人の俳優たちは一人ひとり、それぞれに異なる魅力を持っていて、ファンを大切にしていますから、人気が出るのもわかります」
日本のファンに感激しているのは俳優だけではない。タイの映画監督などは、映画祭の質疑応答やメディアの取材に熱心に答えることが多いのだが、それは、作品をより深いところまで見てくれていることがわかるからだという。
「メディアの取材で通訳を担当することも多いのですが、“みんなすごく深いところまで質問してくれて、自分が気づかなかったような視点で作品を見てくれるので、質問に答えるのが嬉しい”と、話す監督は多いですね。
映画祭で一般の方からの質問でも“直接いろんなやりとりができるから楽しい”と、喜んで答えてくれています」
仕事が途切れない理由は真摯に向き合う姿
コロナによる海外渡航の規制が緩和されるにつれ、タイ人俳優やドラマ、映画関係者の来日が増えている。
それに伴い、高杉さんも彼らの言葉をより深く、きちんと伝えるために、ドラマや映画を観るための時間を大幅に割き、間違いがあってはいけないため、自分が翻訳した文章をタイ人にチェックしてもらうなどと、通訳・翻訳の現場以外での下準備の時間は増える一方。
しかし、長年タイの文化芸能の仕事に携わりたいと願い、自身も大のタイ映画やドラマファンである高杉さんにとっては、充実した時間でもある。
「仕事なのか、リアル推し活なのかちょっと区別がつきません(笑)。エンタメ分野の通訳・翻訳はそうした勉強の時間も含めてとにかく時間がかかりますし、手が抜けないですし、そして眠い。
タイ人俳優たちがSNSに投稿した情報をファンが受け取ることを、“パンをもらう”というのですが、こうした“パン”をチェックして、俳優たちが影響を受けたという日本のドラマやアニメ、映画まで手を広げると本当に追いつきません。
私の脳のキャパシティには限界があるので、いろいろ見たいけど、仕事の優先順位に合わせて見ているのが現状です」
タイのドラマや映画、音楽が日本で受け入れられているという状況は、数年前から見れば考えられないことだが、高杉さんにとっては、自分がかねてから好きだったものが、ここまで多くの人の心をつかんでいることに驚き、そして大きな喜びを感じている。
「タイでは俳優たちがテレビ局に所属して、さまざまなドラマに出て知名度を上げ、演技力を磨いていきます。そんな彼らが人気と実力を獲得して、ぜひタイ映画にもどんどん出てほしいと思っています。そして、日本に来たら、私に仕事をください。これっていい流れでしょう?(笑)」
(取材・文/吉川明子、編集/本間美帆)
【PROFILE】
高杉美和(たかすぎ・みわ) タイ語通訳者・翻訳者・コーディネーター。タイのエンタメ領域を中心に、一般通訳を行う。撮影誘致コーディネーターとして、『STAY Saga 〜わたしが恋した佐賀〜』のドラマ制作に伴い、佐賀県への誘致に携わり、その他、東京オリンピック・パラリンピックの事前キャンプ誘致のコーディネート、現場通訳の仕事も行っている。