劇作家・演出家・俳優として、第一線で幅広く活躍する渡辺えりさん。ロングインタビュー【第2回】では、人生の転機、諦めない夢について、67歳の今思うこと、気持ちを浮上させる恋心(!?)について……など、たっぷり語っていただきました。
テレビでは“明るいおばさん”を演じている
──ドラマやバラエティ番組などを拝見して、渡辺さんからいつも元気をいただいています。日頃から“くよくよしないタイプ”ですか?
「割とくよくよしているタイプだと思いますよ。だからすぐに後悔したりするんです。中学校のときの先輩が、“もう後悔するな、反省しろ”って言葉をくれたんですけど、そうは思っても“あの時、ああすればよかった”とか、ついつい思っちゃうんですよね。何事も諦められないような性格なので、それを変えたいと思いながらも、変えられないで67歳まできてしまいました」
──全然そうは見えませんね。
「それは役柄のせいじゃないですか? バラエティも明るいおばさんを演じていますからね。だって、バラエティでくよくよしている私を出したらダメでしょ? 実際はあんな人じゃないですよ。普段は、黙って“う~ん”とか“ああ~”とか考えているような感じだけども、それだと仕事にならないから(笑)」
中学2年生のとき、親しい先輩を失って
──これまでのお仕事や人生経験を振り返って、転機になったと思える出来事はどんなことでしょうか?
「人生にとっての転機……考えたことないですね。でも、今思ったのは、中学2年生のときに、合唱クラブの部長が亡くなったことかもしれません。お花屋さんの娘さんで、すごく優しくて女神さまみたいな先輩で大好きだったんですね。その人が、小児リウマチで突然亡くなってしまったんですよ。だからもうショックで驚いちゃって。
先輩とはすごく親しかったし、日記みたいな文章を読ませてもらっていたんです。それまでの記憶はあるのに、泣いても叫んでも、もういないじゃないですか。私が読んだ小説の中では、“魂があって、いつか会える”みたいなことを言う人もいたのに、現実で初めて本当に身近な人が亡くなって、二度と会えないっていうことの絶望感や虚しさを感じて。楽観主義では生きていかれないということを知ったのが転機なのかなと、今、聞かれて思い出しましたね。
それまでも、小学校のときから小説を書いたりしていて、悲劇の話が好きで、よく最後は自殺で終わらせていたんですね。でも本当に、先輩にもう会えないんだって思ったときに、安易に悲劇の物語を書くってことはどうなんだろう……ってことを考えるきっかけにもなったかなと思います。
その後も、高校1年生からの親友を9年前にがんで亡くしたんですけど。本当に今も寂しくてつらいのですが、この“人の死”っていうのは乗り越えられないんだなっていうことに気がついたときが、人生の転機かなという気がします。
乗り越えられないことがあるんだっていうことを経験したことによって、震災についての活動や反戦運動もするようになりましたし、戯曲も書くようになったのかなと。それから父親にも戦争体験を聞いて、ますますそういう思いが強くなるんですけど。その先駆けが、中学2年生のときに経験した先輩の死でした」
報われない夢を実現させたい
──52歳のときに、美輪明宏さんの助言で芸名を「渡辺えり子」から「渡辺えり」に改名されましたが、その後の人生に変化はありましたか?
「そのころ、扁桃腺膿腫になって死にかけたんですね。それを言っていないのに、美輪さんから突然、朝8時くらいに連絡があって、“名前を変えたほうがいい。そうしないと身体を壊すよ”って言われたんですよ。“え! 透視能力者か”と思って。それで変えたんです。
渡辺えり子って名前は、苦労は買ってでもしろっていう苦行僧のような字画で、若いときは耐えられるけど年齢も50歳を過ぎたので、いい名前に変えて健康でいたほうがいいんじゃないか、という助言をいただいたんですね。でも、改名した名前で呼ばれないとその運にならないらしくて、いまだに“えり子さん”って呼ばれるから、変えてもダメですね(笑)。まあ、今も生きているってことは、名前を変えてよかったんじゃないかとは思いますけど」
──渡辺さんの元気の素は何でしょうか?
「報われない夢があるので、それを実現させたい。まだ、ぜんぜん実現しないことが多いから、実現するまでその夢を諦めないでやろうとしているところが、やっぱり元気の素かなとは思いますけど」
──その夢とは?
「世界平和が一番の夢です。世の中から戦争をなくしたい。でもなかなかなくならないじゃないですか。だから、これはもう、なくなるまでしつこく諦めないで、演劇の力ででも、言葉の力ででも、やっていきたいと思います。それが元気の素だって言ったら、戦争で亡くなった方に対して申し訳ないですけど……戦争はなくすんだっていう思いを、今の世代の私たちが諦めちゃったら終わりですから。
ただ、世の中は悪くなっていっている。アフガニスタンやパレスチナ問題も収まらないし、ミャンマーはまだ軍事政権が続いているし。日本では今、格差もどんどん広がっているし、男女格差の問題もね、いまだに女性の給料のほうが低いし、男性社会だし。だから、私が山形から上京してきてすごく頑張ってやってきたことは何だったんだろう? って今、本当に思いますよ。反原発運動もずっとやっているのに、原発はいまだに続いているし。やってもやっても状況が変わらないまま、もう67歳になってしまったという思いもありますね」
独身で子どものいない67歳は、孤独との闘い
──67歳という年齢とはどう向き合っていますか?
「残念なのは、子どもが産めないってことですね。それが本当に残念だっていうのが、本音かな。今からでも産みたいけど産めない。全世界の子どもが自分の子どもなんだからって考えて、生きてきましたけど、やっぱりひとりになってみると、子どもに何かを伝えたい。身近に子どもがいてほしいみたいなことになるけど、67ではやっぱり子どもは産めないという現実があって。
女の人は損だなって思いますよ。だって男性は若い人と結婚さえすれば、子どもを作ることは可能ですけど、女性は若い人と結婚したって、子どもはできないわけだから。近未来に可能な時代は来るかもしれませんけど、現時点では67歳と向き合うっていうのは、そこかな。独身で子どものいない67歳って、孤独との闘いじゃないですかね。孤独との向き合い。愚痴をこぼす相手もいない……みたいなことも心配しますよ。子どものいる人は、いるなりの悩みはあるんでしょうけどね」
──これからの仕事については、どう考えられていますか?
「仕事がずっとあるかは、わからないですけどね。(事務所を)独立すると頼まれたことを断れないので、さまざまな細かい仕事があって(※編集部注:2021年4月に個人事務所を設立)。今、それをこなしていくのが大変なので、何を受けるかを考えて、自分がやりたい夢に向かって整理していかなくちゃいけないと思うんです。
今は、自分で映画を撮る準備をしているんです。資金集めからスタッフ集め、興行会社探しまですべてやりながら、脚本を書くための取材も続けてきました。シベリア抑留の話で、抑留者50万人の中にいた600人の女性のことを書いています。撮影は4年かかる予定で、春夏秋冬のシーンが必要なので、今年、春のシーンだけでも撮りたいと思っているんです。それから、7月と11月に『オフィス3〇〇』の舞台の演出の仕事があります。ただ、全部お金にならない仕事なんですね。だから、生活するために必要な仕事も受けなくちゃいけない。やりたいことは、なぜかお金にならないので、困ってますね(笑)」
ジュリーを見ると、気持ちが浮上します
──ご多忙ですけど、健康には気を使っていますか?
「黒柳徹子さんはいまだに10時間寝ているとか、長生きされている方は睡眠時間が長いって聞くので、たくさん寝たいと思うんですけど、やっぱり年を取ると5~6時間しか眠れないですよね。脳を活性化させるために寝ないとダメだけど、眠れないってことは、もうダメなのかなと思ったりして、不安ですけどね」
──イキイキと元気に生きていくために欠かせないと思うことは?
「やっぱり、憧れの人がいるとぜんぜん違うと思いますね。私は、ジュリー(沢田研二)のDVDとかYouTubeを見ると、ほんと気持ちが浮上しますから。悩んでいるときには、スターでも誰でもいいから、自分の好きな人を見る。最近は、カザフスタン出身の歌手で6オクターブ半の美声のディマシュ・クダイベルゲンという人の映像を見て、すごく癒やされてます。そういう恋心っていうか、憧れを持つっていうのは、いくつになっても必要だなと思いますね」
──ジュリー歴は長いんですか?
「小学校6年生のときから好きで、最初に買ったLPはザ・タイガースの『ヒューマン・ルネッサンス』でした。それで、バロック音楽が好きになり、その後ロックが好きになって、それからジャズが好きになり……。タイガースは、自分の音楽の大元を作ってくれた人たちなので。そのグループのボーカルの沢田研二さんが、ずっと今も現役でいてくれるっていうのは、本当にありがたいことだなって」
──そういう人は心の支えでもありますよね。
「ええ。離婚して寂しくて、事務所も独立して、本当にひとりになりましたから、本当に孤独で、毎日泣いていましたからね。そういう自分を支えるものがあったっていうのは、よかったなと思います。
女性は人としゃべったり、愚痴をこぼしたりしてガス抜きする必要があるのに、コロナでそれを封じ込められてしまって。人と話すことで悩んでいるのは自分だけじゃないって確認していたと思うんですよ。それができないと、自分の中に入り込んで追い詰めてしまう。私もそうならないために演劇や歌をやっているので、ガス抜きとして『有頂天作家』の舞台を観ていただきたい。お客様が観てくださることで、こちらも生かされるのだと思います」
(取材・文/井ノ口裕子)
《PROFILE》
わたなべ・えり 1955年1月5日、山形県出身。1978年に劇団2〇〇(その後劇団3〇〇に改名)を結成。小劇場ブームをけん引する。現在は「オフィス3〇〇」主宰。作・演出・出演の3役を担い、1983年『ゲゲゲのげ~逢魔が時に揺れるブランコ』で岸田國士戯曲賞、1987年『瞼の母―まだ見ぬ海からの手紙』で紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞するなど、多くの話題作を発表。2004年『今昔桃太郎』、2009年『新版 舌切雀』では歌舞伎の作・演出も手がけた。舞台のみならず、ドラマ、映画、執筆活動など、各分野で活躍。近年、歌手活動にも精力的に取り組んでいる。2019年より日本劇作家協会会長。2021年4月には個人事務所を立ち上げ再スタートを切った。
《喜劇名作劇場》恋ぶみ屋一葉『有頂天作家』
作・演出:齋藤雅文
出演:渡辺えり キムラ緑子/大和田美帆 影山拓也(IMPACTors/ジャニーズJr.)春本由香 瀬戸摩純 長谷川純 宇梶剛士/渡辺 徹 ほか
日程・会場:【京都公演】2022年1月15日(土)~28日(金)南座 ※公演終了
【東京公演】2月1日(火)~15日(火)新橋演舞場
チケットに関するお問い合わせ先/チケットホン松竹 0570-000-489