「原子力明るい未来のエネルギー」
原発PRの標語を考えたことで知られる大沼勇治さん(46)は今年の夏、悩みながら「新たなスタート」を切ろうとしている。
故郷の福島県双葉町で避難指示が解除される。子どものことを考えると、町に帰ることはできない。けれど、町で暮らしたい人のために何かできないか──。悩んだ末、事故前のアパート事業を再開させることにした。
「明るい未来はなかったけれど、やっぱり故郷は故郷。縁を切りたくないんです」
ウクライナで故郷を追われている人々にも思いをはせつつ、大沼さんの新たな挑戦が始まる。
(昨年秋には、大沼さんに今も深刻な被害が続く原発事故をどう「伝承」していくのかなどを聞いたインタビューを掲載:〈原子力明るい未来のエネルギー〉標語の考案者が語る「恥ずかしい記憶」の意味)
今夏、3・11から12年目のリスタート
福島第一原発が立つ福島県双葉町。町の中心部の一画に「原子力明るい未来のエネルギー」の原発PR看板は立っていた。
看板は2015年12月に撤去され、近くにあった商工会や体育館なども、すでに解体されている。風景は変わり果ててしまった。その中で今も事故前の面影を残しているのが、大沼さんが所有するアパート「エクセレント・ユーティー」だ。
4月下旬の晴れた日に双葉町を訪ねると、「エクセレント・ユーティー」のブルーの外壁の周りには足場が組まれ、作業服姿の人々が屋根にのぼっていた。「除染作業中」のノボリが立っている。
大沼さんが話す。
「屋根や壁の除染を業者の方にお願いしています。これで放射線量が下ってくれれば、屋内に入ってハウスクリーニングをします。あとは電気やガスなどの設備や必要なリフォームを済ませれば、もう一度お客さんに入ってもらうことができます」
オール電化・高密度・高断熱が売りの2階建て住宅。4世帯が入居できる。大沼さんが新築した2008年のころは、町の高級物件だった。見た目は今も立派だが、目に見えない放射性物質で汚染されてしまっている。
「除染してもらって、線量が下ってくれればいいんですけどね……」
大沼さんはそう言いながら、ビデオカメラを回して除染の様子を撮影していた。
「双葉町が変わっていくところを写真や映像に残しています。故郷のもとの姿を忘れないためです。このアパートも町の風景の一部ですから、建物がどう変わっていくのかをきちんと記録しておきたいんです」
◇ ◇ ◇
数か月前の2022年1月29日、大沼さんは妻と小学校に通う2人の子どもをつれて、双葉町の自宅に泊まった。原発事故後、初めてのことだった。
全町民の避難から12年目となる今年の夏、双葉町ではようやく一部地域で避難指示が解除される予定だ。再び町で暮らすため、元の住民たちは「準備宿泊」ができるようになった。大沼さんの帰宅は、そのひとつだった。
家の中はすでにハウスクリーニングを頼んで片づけてしまっていた。事故前の荷物は何もない。段ボール箱を組み合わせて簡易的なテーブルを作った。見栄えをよくするため、段ボールに模造紙を貼りつけて、こう書いた。
〈2022年1月29日 RESTART〉
しかし、テーブルに書いた〈RESTART〉は、「双葉でもう一度暮らす」という意味ではない。「故郷と自分がつながっているための営みを、またひとつ始める」という意味だ。
故郷は恋しい、しかし──。消えない悩み
この数年間、大沼さんは取材などで聞かれ続けた。
──もし双葉町の避難指示が解除されたら、大沼さんは帰りますか?
「それは難しい」というのが、いつもの答えだった。
電気や水道などのインフラが整ったとしても、町内にはまだ学校がない。避難指示が解除されるのは町のごく一部にすぎず、子どもが遊べる場所も限られている。もちろん、廃炉作業中の福島第一原発や、放射性廃棄物がたまる中間貯蔵施設が近くにあるのも心配だ。
大沼さん自身のことを言えば、避難してから十年以上がたっても、故郷への思いが消えることはない。それどころか、つのる一方である。
原発事故で避難してから、大沼さんは月1回くらいのペースで双葉町に帰っている。一時帰宅はすでに100回以上になる。故郷に帰るたび、子どものころの記憶がよみがえる。川でコイやフナを釣ったこと、ソフトボール大会に出たこと、食堂で食べた味噌ラーメンの味……。それらの記憶は双葉の地を踏むことで脳裏によみがえってくる。
「故郷への思いはありますよ。しかし、それを子どもに押しつけることはできません」
大沼さんは悩んだ末、再び町で暮らすことはできないけれど、町との縁を切らない道を選ぶことにした。町内には自宅があり、「エクセレント・ユーティー」も含めて2棟のアパートを所有している。これらの建物を解体せず、維持・管理する。自宅は墓参りのときなどに家族が泊まる場所として使う。アパートは、希望者がいれば入居してもらいたい。
「解体してもらったほうが楽だ、という声もあります。建物を維持するだけでお金もかかりますから。でも、ここを更地にして草がぼうぼうになったら、もう私は双葉に来る理由がなくなってしまうんですよね。ここに自分の家があり、アパートがあることで、町に通う理由ができます。除染しようとか、入居者を増やすためにリフォームしようとか。もう双葉に来なくていい、というふうになるのが、いちばん悲しいんです」
原発PRの標語を考えた責任も感じている。
「原発では『明るい未来』はこなかった。『破滅の未来』しかなかった。自分の標語を訂正したい気持ちが強くあります」
看板があったころは、その前に立ってプラカードをかかげ、標語の訂正を行ったこともあった。しかし、本当の「訂正」とは何かを考えれば、「原発なしの明るい未来をつくる」ことではないか?
原発の廃炉は、少なくともあと数十年つづく。手ごろな賃貸物件があれば、作業に携わる人の住まいにできる。そうした形で双葉町の「明るい未来」づくりに関わることを、大沼さんは目指している。
復興庁などによる住民アンケートに対して、「双葉に戻りたいと考えている」と回答した人は11.3%、「戻らないと決めている」と答えた人は60.5%。事故前に双葉町に住んでいた人はみな、大沼さんのように悩みつつ、それぞれの事情で故郷との付き合い方を考えているのだろうと思う。
ウクライナの人々は「自分たち以上に不安だろう」
4月6日、双葉に帰った大沼さんは、自宅の窓に黄色と青色の布を貼った。ウクライナの国旗だ。窓にメッセージを貼りつけた。
〈ウクライナも双葉町も故郷へ無事に帰れますように〉
大沼さんはチェルノブイリ原発事故があったウクライナに対して、以前からずっと特別な思いを抱いていた。原発PR看板の写真が、首都キーウの博物館に展示されたこともあった。
今年3月、ロシアのウクライナ侵攻が始まって以来ずっと気にかけていたが、その思いがさらに強まったのは今年3月、「愛知県がウクライナからの避難者を受け入れる」
「当時のことが一気によみがえりました。私はまず、同じ福島県内の会津若松市に避難しました。会津若松はまだ雪が残っていて、寒かったんです。しかし、3月の末に愛知へ行くと、ぽかぽかして桜が咲きそうな陽気でした。同じ日本でも全然違う、縁もゆかりもない場所に来てしまったと、とても心配になりました」
当時、妻のせりなさんは妊娠7か月だった。大沼さんは続ける。
「安心して出産してほしいと考えて、福島第一原発から遠い愛知まで来たけど、テレビもない、洗濯機もない、冷蔵庫もない。数日分の着替えしかありませんでした。土地勘のない場所でこれからどう生きていくか、本当に不安でした」
当時の苦労を思い出すと、ウクライナを着のみ着のまま逃れてきた人々のことは大沼さんにとって、ひとごとではなかった。
「きっと、いろいろな不安の中、ただ無心で、戦地から逃れてきたのだと思います。言葉が通じない国への避難は当然、私よりも不安なことが多いでしょう」
自分に何かできないかと思って考えたのが、双葉の自宅からメッセージを送ることだった。
「双葉町の人もウクライナの人も、故郷を奪われた気持ちは一緒だと思うんです」
誰もが故郷で暮らせる日が来ることを思い描いて、大沼さんはささやかなメッセージを送り続ける。
(取材・文/牧内昇平)