日本で最もカオスでディープな場所・中野ブロードウェイ(東京都中野区)。“サブカルの聖地”と呼ばれ、種々雑多なお店がひしめくその地下1階にて、もう13年目に突入している人気の雑貨店が「中野ロープウェイ」だ。
このお店「アイドルがたびたび店を訪れては、買い物をして写真を撮影されて帰る」という、ちょっと奇天烈な現象が数年間続いている。そしてアイドルオタクまでがお店に集う。もはやタピオカライクな一過性のブームではない。立派な”地下アイドルの聖地”となっているお店だ。
そんな中野ロープウェイの店主がイトウさん。まだ「アイドルオタク」というフレーズがネガティブな意味合いを持っていた時代を含め、1980年~2010年代にアイドルを追いかけ続けていた猛者である。
今回はそんなイトウさんにインタビュー。「アイドルオタクになった背景」や「中野ロープウェイにアイドルが集うお店になった理由」「アイドル市場が冷めていた時代のオタクの現場のリアルさ」などを伺った。
「地下アイドルが集うお店」になったきっかけは、夢眠ねむさん
──中野ロープウェイのTwitterには毎日のように来店したアイドルの方の写真が投稿されていますが、これはどういう流れで生まれたんでしょうか?
「きっかけはひとつじゃないとは思いますが、最初の流れはやっぱり元でんぱ組.incの夢眠ねむさんですかね。
自分は昔、よく高円寺で遊んでいたんですが、当時の高円寺は町全体が“老若男女みんな友達”みたいな感じだったんです。趣味の合う者同士で遊んだり、バンド組んだりネットラジオしたりしてて、お互いその界隈にいました。まだねむさんが芸能活動してなかったころだと思います。
それで自分はお店を始めて、ねむちゃんはでんぱ組.incになったんです。そのとき、ねむちゃんがお店に来るたびに芸能人ご来店写真のパロディみたいな感じでブログに載せていたら、向こうはどんどん有名になって本物の芸能人になった、という感じです。
だから、有名な人が来てくれてたというより“来てくれてた人が有名になった”という感覚ですね。ただ、たまにあばれる君とか本物の芸能人が来たら”パロディのパロディ”というか、逆転現象みたいな感覚になって面白いです」
あのちゃん以前、あのちゃん以後
──おもしろい現象ですよね。SNSの流行もあって無名の人がすぐ有名になるようになった2010年代ならではというか……。最近でいうと、大活躍中のあのさんも来られてましたね。元ゆるめるモ!の。
「そうですね。最近よくテレビで見ますね」
──あのさんが初めて来たのっていつぐらいですか?
「もう10年くらい前じゃないかな? あのちゃんが初めて来てくれたとき、実は僕は店にいなくてうちの母親に留守番頼んでたんですよ。用事を済ませて店に戻ったら母が“今、ギター抱えた方が来てくれたよ”って。
誰だろうと思ったら、当時お店に飾っていたゆるめるモ!のCDに『あの』ってサインしてあって。それが粋というか、めちゃくちゃカッコよかった。そのCDが『箱めるモ!(※)』だったから、初めて来てくれたのは2014年くらいだったと思います」
※箱めるモ!:ゆるめるモ!と箱庭の室内楽による、2014年発売のコラボレーション・ミニアルバム。
──カッコよ……。
「でも当時から影響力はすさまじかったですね。うちで買ってくれたヘアゴムとかアクセサリーをつけてライブに出てくれるので、ファンの女の子が同じものを買いに来てくれていました。ゆるめるモ!は当時まだそれほど有名ではなかったと思いますので、あのちゃんの登場は局地的にかもしれませんが、すごいムーブメントでした」
──確かに、登場してから今まで、あのさんのカリスマ性はとんでもないですよね。どこがすごかったんでしょう。
「もともとアイドルって“ファンに夢とか元気を与えたい”みたいなポジティブなコンセプトが主流だったと思うんですよ。でもあのちゃんって、おそらくそんなの全然ないですからね。全然夢を与えようとしてなかったというか。
“ザ・現実”みたいな感じで、つらいときにつらそうな感じを出すアイドルって、それまでいなかったですよね。それが当時は斬新でした。“あのちゃん以前、あのちゃん以後”ってのは、確実にあるでしょうね。本来ならアイドルになるようなタイプじゃなかったんでしょうけど、SNSとかと連動して発信されたことで、世間に認知されたというか」
──なるほど。今は“地下アイドルがつらそうな顔をすること”はだんだん当たり前になってきましたよね。
「そのスタンダードを構築したひとりは、あのちゃんだと思います。もちろん、当の本人は意図してないと思うし、外野からの的外れな意見かも知れませんが。
彼女を見て楽になったり“そのままでいいんだ”と思えた人はたくさんいるでしょうね。それまでの“いつも明るくて夢いっぱいみたいなアイドル像”に共感できなかった人たちをたくさん救ったんじゃないかなぁ」
──なるほど。間近で見ていても、地下アイドル像をガラッと変えた感じがあったんですね~。
「あとはもうたたずまいというか身体性というか、あのちゃんのアティテュードが渾然一体となって一大ムーブメントになったんじゃないかな。
平成のファッション史であんまり語られないけど、間近で見ていてシノラーとかアムラーくらい盛り上がりましたよね。ボブカットにパンダのスリッポン、水色、みたいな。中野ロープウェイのTシャツが今でも、白・黒・水色の3色展開なのはその影響です」
「美奈代ちゃん隣の中学事件」がアイドル現場派の原体験に
──「アイドルが来るお店」になった理由は「イトウさんがアイドルファンだから」ということもあると思うんですが、いつごろからアイドルファンだったんでしょうか?
「小学校のころからです。最初は普通にマッチ・明菜・聖子ちゃん、みたいな、みんなが好きなアイドルを自分も見ていた感じでした。だんだんクラスの中でもそういうのが好きなミーハーグループができてましたね。
当時は月の小遣いも1000円くらいで、レコードとかまず無理なのでクリスマスに買ってもらった東芝の『シュガー』という真っ赤なダブルラジカセでラジオの音楽番組を片っ端から録音して聞いていましたね」
──なるほど。最初は世間的なレベルと同じだったんですね。
「小学5年生のときに『夕ニャン(夕やけニャンニャン)』が始まったんですよ。当時部活をドロップアウトしたばっかりで、5時に帰ってそれを毎日見るんです。親が共働きしている間に。とても親と一緒に観れるような番組じゃなかったですからね。
それで激ハマりしました。クラスでも“おニャン子で誰々が可愛い”みたいな話になってました。今でいう“推し”ですね。当時はソロアイドル全盛でグループアイドルの文化がなかったから、それもちょっと新鮮な感覚だったのを覚えています。
新田恵利と国生さゆりが人気だったけど、私はゆうゆ(岩井由紀子)と渡辺美奈代が好きでしたね。このころから音楽というより、アイドルのファンになっていたんだと思います」
──なるほど。だんだんと楽曲でなく、アイドルが好きになっていったんですね。アイドルという存在のどういった部分に惹(ひ)かれたんでしょうか?
「どうなんだろう? 女の子が歌ってる姿を見るのが単純に好きでした。思春期だし、可愛くてちょっと怪しい雰囲気の曲を歌っているのに惹かれたのかな? サブカルというかオルタナティブなものに惹かれる感覚だったと思いますね。当時はもちろんそんな言葉は知りませんが。
それで中学生になるんですけど、そのころ僕、カンペンケースに油性ペンで“渡辺美奈代”って書いてたんですよ。それを見た担任の先生が“美奈代ちゃん好きなの? 私、前の学校で美奈代ちゃんの担任だったのよ”と教えてくれるという僕にとってのエポックメイキングな事件が起きたんです」
──え! すごいっすね。そんな偶然あるんだ……。
「そう。それで美奈代ちゃんの中学時代のエピソードをその先生からいろいろ聞いたりして、それはちょっと衝撃でしたね。
もちろん“いない”とは思ってないけど“アイドルが、存在している”という実感なんてなくて。全部テレビの中の出来事だと思っているから。それで家に帰って『ホッピング』という美奈代ちゃんのアルバムを聞いたら、なんだか全然違って聞こえたんですね」
──同じ音源なのに違って聞こえた。
「なんというか生々しく聞こえたんですよ。当たり前なんだけど“実在する人間が歌ってるんだなぁ”とびっくりしましたね。“LIKEがLOVEにゆるやかに変わる感じ”というか。のちにアイドル現場派(※)になるわけですけど、この“美奈代ちゃん隣の中学事件”は、現場に行くようになった原体験のようなものとしてありますね」
※ライブをはじめとしてアイドルに直接会える場所のことを「現場」という。
「アイドル冬の時代」のリアルな感覚
──なるほど。「存在する」ということを強く実感したんですね。それから現場に行くように?
「20歳でアイドルを見るために上京するんですけど、そこからは24時間アイドル漬けでした。当時はアイドルの数も少なくて、アムロちゃんから制服向上委員会まで全部見れましたね。どの現場もお客さんがだいたい同じなんですよ。だからアイドルファンの友人も増えてどんどん楽しくなってきた時期でした」
──「アイドルを見るために上京する」というのもすごいですね。しかし「全部見られる」という感覚は今じゃ考えられない……。
「’90年代の女性アイドルシーンはそのくらい”冬の時代”だったんですよ。今でこそ“趣味はアイドル”って普通に言えますが、当時は犯罪者みたいな目で見られてましたね。’89年に『宮崎勤事件(※)』が起きてから、オタクのイメージが悪くなり、’90年代には従来のアイドルファンが“=オタク”として括(くく)られていました。
※宮崎勤事件:元死刑囚・宮崎勤による事件。1988年から’89年にかけて、計4人の幼女・女児を誘拐し殺害した。捜査の過程で、彼が“オタク”であることが事件につながったという報道が過激化。俗にいう“オタクバッシング”が広まるきっかけにもなった。
今じゃ考えられないけど、アイドルオタクというのは完全なアングラ文化でしたね。世間はバンドとかシンガーソングライターとか、自分で曲を作って歌う人しか認められなかったような雰囲気でした」
──「好き」と声を上げるのも難しい時代に、どうしてイトウさんはアイドルを追いかけ続けられたんですか?
「差別を受ければ受けるほど、アイドルオタクがカッコいいと思えたんですよね。まだ何者でもない自分は、世間から逸脱した姿がすごくカッコよく見えたんですよ。ヤンキーに憧れて道を踏み外すのと同じです。オタクに憧れて道を踏み外しましたね」
──なんだかわかる気がします。「超健康なのに眼帯をつけて登校する」みたいな。変なヤツと思われるほど、カッコよく見えてくる……。
「そうですね。今でいう“中二病”的な。アイデンティティを確立したい欲求が、わけのわからない暴走をするというか。アイドルは好きだけど、アイドル好きは肩身が狭い。少しの葛藤もあったけど“人から蔑(さげす)まれる存在になろう”と思いましたね。
オタクを続けることで、いろんなものを捨てたり諦めたりするという覚悟でした。“制約と誓約(※)”じゃないけど、厳しい時代だったからこそ、よりアイドルに対する熱が高まっていきました。
※マンガ『HUNTER×HUNTER』(集英社)に登場する能力。自分に課す制約が厳しいほど能力が高まる。まさに当時のオタク力を物語っている。
だからいまだにオタクって言葉から、ちょっとネガティブな印象を受けてしまうというか。今はアイドルが自分のファンのことを“私のオタクが~”みたいに言うのも普通だけど、ちょっと複雑な気持ちにもなりますね」
(取材・文/ジュウ・ショ、編集/FM中西)