天皇・皇后両陛下は12月16日夜、皇居近くの静嘉堂文庫美術館を訪れた。開館記念展『響きあう名宝―曜変・琳派のかがやき―』では茶道具、琳派作品、中国書画、刀剣が展示されて、中でも世界に数点しかないという中国で作られた茶碗「曜変天目」の美しさにおふたりは魅入られたという。
皇后雅子さまは、同月9日に59歳の誕生日を迎えられたばかり。29歳のときに天皇陛下とご結婚、皇室に入られてから今年で29年半が過ぎた。人生のちょうど半分を皇室で過ごされてきたことについて、誕生日に際して公表された文書の中で、《これまでの人生を思い返してみますと、29歳半までの前半にも、また、皇室に入りましてからの後半にも、本当に様々なことがあり、たくさんの喜びの時とともに、ときには悲しみの時も経ながら歩んできたことを感じます》と述べられた。
皇室入りしてからの約8年間はお世継ぎ問題で悩まれてきたといわれたが、愛子内親王殿下のご誕生で悲しみは喜びへと変わったことだろう。だが雅子さまは産後のお疲れなども重なって2003年には帯状疱疹となり、翌年の7月に精神疾患の「適応障害」であることが宮内庁から発表された。
ご病気の雅子さまにとって、公務は無理でも子育てならできるという日が続いた。精神疾患は理解がされにくい病気だ。今では職場など社会の理解も少しは進んできたが、雅子さまがご病気になった約20年前は、宮内庁の侍医であっても専門医でないことからすぐに治療は行われなかった。精神疾患は気持ちの持ち方で治ると考えられていたのだ。報道でも雅子さまのご病気は「わがまま」といわれ、子育ても「過保護」と揶揄(やゆ)された。
さらに批判は雅子さまを全力で支えられていた天皇陛下にも目が向けられて「私的優先」ともいわれた。
かつては「公」より「私」を優先、との批判も
振り返れば、上皇陛下も皇太子時代に子育てをなさっているときには「マイホームパパ」とメディアで批判されたことがあった。さらに今上陛下の場合は、皇太子(当時)としての責務まで問われるようにもなった。
天皇や皇族に「私(わたくし)」はなく、国民のために「私」よりも「公(おおやけ)」を優先するというモラルに反しているのではないかというものだったが、当時、天皇陛下は44歳の誕生日会見(2004年)の中で、記者からこのことを問われると、
「時代というものも変わってきていますし、“公”というもののとらえ方、そして“私”というもののとらえ方というものは、その時代時代で変わってきているわけですけれども、いずれにしても国民の幸福をいちばんに誰よりも先に、自分たちのことよりも先に願って、国民の幸福を祈りながら仕事をするという、これが皇族のいちばん大切なことではないかというふうに思っています」
と説明された。この言葉を聞いた当時の宮内庁幹部たちは、上皇ご夫妻を否定しているようにも捉えられかねないと嘆いていたことを思い出す。
「国民を思う“公”と“私”を大切にするということは別のものだという概念が強かったのでしょう。雅子さまは愛子さまが内親王だったことから、すぐに第2子の親王誕生を求められましたが、世継ぎが喫緊の問題だとしても宮内庁の追い立てるような物言いはよくなかった。
雅子さまはたとえ内親王であっても、ひとつの尊い命として、愛子さまを愛しみながらご自分ができる精いっぱいのこととして陛下と子育てに向き合われてきたのだと思います」(宮内庁関係者)
成年皇族になられた愛子さま
両陛下の子育てが間違っていなかったことは、2021年12月に成年皇族となって国民の前に姿を見せた愛子さまの品格と穏やかな表情がすべてを物語っているかのようだった。
2022年3月には成年皇族として初の単独会見に臨まれた。会見中、両陛下は別室に控えて、愛子さまの言葉を聞きながら見守られていたのが印象的だったと関係者は語る。
雅子さまにとって子育ても終わり、「適応障害」も回復の途中ではあるが、体調が安定する時間は長くなってきているといわれる。突然に襲ってくる不安などに対しても切り替えの仕方や工夫をし、体調管理をなさっているそうだ。ただご体調によっては、お気持ちの準備に時間がかかることもあるというものだった。
最近の雅子さまは宮内庁の侍医とお会いになることはあっても精神科の主治医に診てもらうことはなくなったといわれる。大きな行事や公務のときだけ侍医と主治医が連絡を取り合うなどして、スケジュールの調整をすることもあるそうだ。
ご公務の充実ぶりが目立った1年
雅子さまの2022年夏以降のご活動は大きな成果となった。8月10日、『第48回フローレンス・ナイチンゲール記章授与式』に日本赤十字社の名誉総裁として3年ぶりにご出席、看護活動に顕著な功績や功労のある人たちを顕彰なさった。
9月には、英国のエリザベス女王陛下の崩御にともない陛下とご一緒に訪英、葬儀に参列された。突然決まった英国行きにお気持ちの準備が整うのか心配もされたが、英国での雅子さまのご体調は落ち着いているご様子だった。誕生日に際しての文書でも、《長年にわたって人々を導かれた女王陛下のお心の深さや知性、そして、その御存在の大きさを改めて感じ、心からの敬意と哀悼の気持ちを抱きました》と綴られている。
天皇陛下は、皇太子時代に初めて海外留学をした皇族だった。その留学先だった英国でエリザベス女王とも親交があり、女王の崩御が発表されたときから、陛下の葬儀参列のご意思は固かったといわれる。
「雅子さまは皇后として、陛下の英国への強い思いに寄り添えたことも喜びや自信になったのではないでしょうか」(元宮内庁職員)
帰国後の雅子さまは、時折、関係者らとの挨拶で笑顔を見せるなど安堵なさっているご様子だった。
翌10月には、恒例の地方訪問の「4大行幸啓」のひとつ、国民体育大会にご出席のため栃木県へ。続けて、沖縄県での国民文化祭にも出席された。
2022年、沖縄は本土復帰50周年の節目となる大切な年を迎えた。両陛下は、上皇ご夫妻から受け継がれた沖縄への想いを込めて、沖縄戦の生存者や遺族と時間を押して懇談をなさっていた。両陛下との会話の中で、遺族たちからは「上皇ご夫妻のお心を引き継いでいらっしゃる」という声が上がっていた。
海外のVIPをコロナ禍の新しいスタイルでおもてなし
全国豊かな海づくり大会に出席のため、今年最後の地方訪問先の神戸市から戻った雅子さまには、少しお疲れのご様子も見られたというが、11月16日にはポルトガル議会の議長夫妻と面談。コロナ禍では1人用のイスに距離を取って懇談していたが、感染が多少は落ち着いたことやマスクによる隔たりを補うために、両陛下のご提案で初めて円卓を囲まれて会話をなさった。
新しい懇談のスタイルはモンゴルのフレルスフ大統領夫妻との面会(11月30日)でも見られた。今年、日本とモンゴルは樹立50年の外交関係を迎えた。
雅子さまはこの日、東京・調布市の小学校を訪れた大統領夫人に日本の教育や子どもたちと一緒に食べたという給食について質問をするなどして楽しい会話が続いたそうだ。
新しい懇談スタイルも功を奏したのかもしれない。天皇陛下は皇太子時代(2007年)にモンゴルの馬頭琴交響楽団でビオラを演奏したことを懐かしんでいたという。
両陛下は国内はもとより外国要人たちと多くの語らいを大切になさっている。エリザベス女王の葬儀の後の会場でも、最後まで残って各国の王族や関係者らと会話をなさっていたのが印象的だった。
12月には来日したベルギーのアストリッド王女とも私的に懇談されたという。その席には愛子さまもお姿を見せたそうだ。
天皇陛下は雅子さまのこれまでの皇室人生を常に見守り、導いてこられた。雅子さまの29年間を振り返ることで、陛下の揺るぎない姿勢もまた見えてくる。
来年は地方訪問の4大行幸啓のすべてのご出席とチャールズ3世の戴冠式、雅子さまのご体調がよければ国交樹立480周年を迎えるポルトガルを訪問なさるかもしれない。
雅子さまがお生まれになった干支(えと)の卯年でもあることから、さらなる“飛躍”が見られる年になるだろう。
(取材・文/友納尚子)