今、若い世代からも、また海外からも熱い注目を浴びている昭和ポップス。昨今では、音楽を聴く手段としてサブスクリプションサービス(以下「サブスク」)がメインで使われているが、必ずしも当時ヒットした楽曲だけが大量に再生されているわけではなく、配信を通して新たなヒットが生まれていることも少なくない。
そこで、本企画では1970年、80年代をメインに活動した歌手の『Spotify』(2023年6月時点で5億1500万人超の月間アクティブユーザーを抱える、世界最大手の音楽ストリーミングサービス)における楽曲ごとの再生回数をランキング化。当時のCD売り上げランキングと比べながら過去・現在のヒット曲を見つめ、さらに、今後伸びそうな“未来のヒット曲”へとつながるような考察を、本人または昭和ポップス関係者への取材を交えながら進めていく。
今回は、1980年代に“ロックの女王”と呼ばれ活躍しつつも、’88年にロンドンに移住、帰国後は環境保全アーティストとしてさまざまな活動に取り組んできたシンガー・ソングライターの白井貴子に注目。彼女は’23年5月、自身初の著書となる『ありがとう Mama』(カラーフィールド出版刊)を発表した。本作は、母の介護を通して気づいたことを明るく前向きにつづったエッセイで、昭和ポップス世代にも大いに気づきや学びがある内容となっている。そこで、いつものようにSpotify人気曲を考察する前に、まずはこの書籍のメインテーマとなっている在宅介護や自宅での葬儀について語ってもらった。
実母の介護を約15年も続け、自宅で看取った経験を1冊の本に
「本を出そうと思ったいちばんのきっかけは、母を自宅で看取り、お葬式も家でするということが、とてもいい経験だったことです。祖父のお葬式を同じ家・同じ部屋でやっていたので、母のときもできるだろうとは思ったのですが、実際に自分が主体となってやってみると、“家でのお葬式はこんなに温かいんだ”って、改めて感動しました。それぞれのお宅の事情があるでしょうけれど、自宅療養でずっと家にいたのに、最後にそこからお葬式の会場に移されるって、ちょっとかわいそうな気がしていて。だから、自宅ですべてが完結し、棺が静かに玄関から運び出されて、霊柩車に乗せられていく……という流れがとてもシンプルで、自然に思えたんです。決して華美ではなく、家族の負担も少なかった。ご近所にもあらかじめ、家でお葬式をあげるとお伝えできたこともよかったですね」
白井は、リウマチに苦しむ母親の介護を15年ほど続けてきたそうだ。介護生活中にSNSを始めたが、その理由についても尋ねてみた。
「最初の10年間は父と私でバトンタッチしながらやっていましたが、父は典型的な昭和ひと桁生まれで、母に代わって台所まわりの仕事などはできないので、そのあたりも私が担当していました。介護の初期は食事やトイレで終日バタバタしていたものの、母が寝たきりになってしまってからは、私がすべき世話がどんどん減っていったんです。それでも、母のことをずっと近くで見ていたい、全身全霊で身体を張って闘っている母の奮闘を多くの方々に伝えたい、と思い、Facebookに介護の様子などを投稿し始めました。私のファンの方々も今後、同じような経験をされることが十分ありえますし、何かお役に立てる形で残したいと思ったんです」
そうして、いよいよ母の死が近づいたときも、SNSがとても心の支えになったと語る。
「それまでも、例えばFacebookに“母が何日も高熱を出している”と投稿していたら、同じような症状の身内を看ている方々から大量に励ましのコメントやメールをいただくなど、SNSはものすごく励みになり、迷っている私の心が晴れました」
周囲からの言葉を受け、母の“旅立ち”のお手伝いをしてあげようと思えた
著書では、母の高熱が何日も続き、やがて食が細くなり、ついには食べ物がのどを通らなくなった様子を“天国へ幸せに向かうための断食なのだ”と表現している。この部分に目からウロコという読者も多いのではないだろうか。
「やはり家族としては、1日でも長く生きてほしい、いつか高熱も下がるもの、と思いこみたいものですよね。でも、あまりに何も口に入れられなくなったときに、“どうしよう、どうしよう!?”って慌てていたら、料理家のタカコナカムラさんにこういう考え方を教えていただいたんです。無理して点滴などから栄養を入れると苦しさが長引くけれど、自然と水以外を欲さなくなったら何も食べない、身体に入れないほうが痛みを感じなくなると。
それで、“これは母が自然に欲している断食なんだ。今まで母は十分頑張ってきたのだし、もう大いなる旅立ちへのお手伝いをしてあげよう”という気持ちで向き合えました。お医者さんを含め周りの方全員、そのことを伝えて点滴をやめてからも、母と自然に接してくれたのがありがたかったです。
SNSでも引き続き、みなさんからのあたたかい声が届く中で、“これまで母は山のような量の検査をし、山のような量の薬を飲んできたのだから、もうありのままに対応して送り出してあげたいな”という気持ちがさらに強くなっていきました」
さらに驚くべきは、当初、母親の介護を分担していたくらい元気だった父親が’22年の春に突然倒れ、母親よりも先に亡くなり、その2か月後、長く病気に苦しんでいた母親も後を追うように、しかも白井の結婚記念日に旅立ったことだ。
「父と母が相次いで亡くなったことには、あ然としてしまいました。これも本を書く大きなきっかけになりましたが、こんなタイミングで大切な人たちがなくなっていくのかと。母はきっと、私の結婚記念日まで我慢していたんでしょうね。命を託されたというか、どこか運命を感じました」
介護は事前準備が非常に大切。楽しんでやるための工夫も凝らした
そうして自身の体験を1冊の本にまとめ、改めて介護について振り返ったという。
「いちばんのポイントは、“介護とは、必要に迫られて初めて必要になるのだ”と気づいたことです。父なんて何も言わずに亡くなったから、とても大変でした。だから、元気なうちにいろいろ準備しておくことが重要ですよね。逆にうちの母は難病だったので、今後その等級が進んでいったときに、どうすれば本人が幸せに暮らせるのかをイメージして多少は余裕を持って動くことができました。
具体的には、例えば在宅介護が必要になり、ヘルパーが欲しいと言っても、すぐには入れてもらえません。候補者と事前に面接をして、お互いうまくやっていけるか見極めて、それから契約など、時間がかかるのです。だから、在宅でなくデイサービスなどを申し込むにしても、親御さんが元気なうちにそういった施設に行って空気を感じ取ってみるといいですよ。私なんて、施設を何か所か回ってお昼ご飯を食べに行きました。やっぱり、ご飯がおいしいって、とっても重要じゃないですか。とにかく事前に準備しておけば、何かあったときすぐに対応できますからね」
また、白井は実家の近くに住む自身と遠方に住む弟との2人兄弟で、親の介護をうまく分担していたという。
「うちの場合は弟とも分担しましたが、母の介護となると、やはりトイレのケアなどは男兄弟だとお互い気にするでしょうから、なるべく近所に住む私がやるようにしていました。私の場合は幸い、週末に遠方でのライブに出かけて家を離れる代わりに、平日は仕事をしている弟が週末は面倒をみるということで、スムーズにバトンタッチできました。その点はラッキーでしたね。ときどきライブ会場にも、弟が母を連れて来てくれました」
そして、コロナ禍での在宅介護においては、自らさまざまな工夫を凝らしたという。
「今回、在宅介護センターのみなさんが本当に素敵で、その出会いがとても大きいです。それでも、親子でぶつかることや悩むことはしょっちゅうでした。特にコロナ禍では、自分の仕事がパタリとなくなり、介護ばかりをやっているうちに、“私はいったい何のために生きているんだろう?”って考えちゃうんですよね。本当に音楽の世界に戻れるのだろうか……と毎日不安でした。
そんな中でも気持ちを切り替えて、“そうだ、家をステージにしよう”と思いついたんです。母の前で歌ってみたら喜んでくれるし、こちらも息抜きになるし、いつか再開されるはずのライブの練習にもなるし。それに、介護は楽しくやらないと自分がダメになってしまう。だから朝起きて母のもとに行くときには、疲れていても大きな声で“おはようございます! 介護士の白井で〜す! 今日のご機嫌はいかがですか?”と冗談を言うなど、明るく接していました」
母への愛から新曲が誕生。ミュージックビデオの撮影も思い出深い場所で
そうした経験から生まれたのが、’23年の母の日にシングルとミュージックビデオが配信リリースされた「Mama」。そっと母に寄り添うような心温まるバラードだ。
「’15年にアルバム『涙河(NAMIDAGAWA)』用の曲を自宅で作っていたとき、階段を下りて母のところに行ったら、リウマチで痛がってウンウンと唸(うな)っていたんです。よほどの痛みに耐えている様子だったので、なんとか励ましたかったんですが、薬も効かないし……。そこで、“そうだ、歌ってみたら痛みも紛れるかもしれない”と思い、自分のひざに小さなキーボードを置いて、母の枕元で、ついさっきできたフワッとし
そこから数年間メロディーのままだったのですが、’19年、私が生まれた街・藤沢で私の還暦バースデーライブを開いたとき、“Mamaへの感謝の日にしよう!”と思いたったんです。また、ファンのみなさんに、これまでちゃんとお伝えすることができなかった“’80年代のステージ衣装を母が作ってくれていたこと”を初めてきちんと伝え、その衣装を数点ピアノの横に並べ、『Mama』という歌を母にプレゼントしたんです。ライブのときはいつも後ろのほうにいる両親でしたが、そのときだけは最前列に来てもらい、歌った後、60本のチューリップを母に贈りました。その歌のメロディーが母がリウマチに苦しんでいたときに聞いてもらったもので、還暦ライブを前にあの日のことを思い出し、歌詞が自然とできました。それが『Mama』の歌です。
本当は母が生きているうちにリリースしたかったのですが、プロモーションビデオを撮った大涌谷が再噴火し、登山鉄道が土砂崩れ、さらにその後コロナ禍に突入という三重苦が続き、“みなさん、箱根に来てくださいね!”なんて、とても言えなくなってしまいました。そのままずっとお蔵入りで、ときどきコンサートで歌う程度でしたが、両親が旅立ち本も完成したので、このタイミングでリリースすることにしました」
本作は、《痛みこらえるママを見て 何もできずに泣いた夜》というフレーズがとても印象に残る。また、本作のプロモーションビデオの撮影も、母の笑顔がきっかけだったと語る。
「たまたま親戚のみんなで箱根のロープウェイに乗ったときに、すでに闘病中だった母が、まるで少女のように目を輝かせて景色を楽しむ様子がとても心に残ったんです。母はもう飛行機にも乗れないだろうと思っていたのですが、ロープウェイで十分だって思えるほど喜んでいました。また、ゴンドラの一つひとつが命の連なりのように見えてきて、ここで撮影をしようと思えたんですね」
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SNSを活用するということや、肉親に対し介護サービス業者のように接することなど、親の介護について多面的にとらえる姿勢は、早期から環境保全に取り組んできた白井ならではのアイデアが多く、興味深い。次回は、その環境への取り組みや、本人もまったく予想だにしていなかった海外で大人気の楽曲について迫ってみる。
(取材・文/人と音楽をつなげたい音楽マーケッター・臼井孝)
【PROFILE】
白井貴子(しらい・たかこ) ◎1959年、神奈川県生まれ。シンガーソングライター。フェリス女学院短期大学音楽科卒。卒業時期よりアマチュアバンド活動を開始し、1980年、ソニーSDオーディションにて、初の女性アーティストとして合格し翌年デビュー。’84年、『Chance!』のヒットを機に“ロックの女王”と呼ばれ、日本の女性ポップロックの先駆者的存在となる。’88年、ロンドンに移住。帰国後、音楽活動を再開し、作詞・作曲活動やアルバム制作、ライブ活動などを行う。また、環境保全にまつわる活動にも積極的に取り組み、神奈川県環境大使も務めている。’23年5月には、母の介護生活についてつづった初の著書『ありがとう Mama』(カラーフィールド出版刊)を発売。同時に「Mama」の楽曲&MV配信。
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→詳細は公式HPにて
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