歌いやすいキャッチーな英語詞に、激しいリズム。パンクロックから派生し、1990年代後半に誕生した「メロコア(メロディック・ハードコア)」と呼ばれた音楽ムーブメント。海外ではGreen Dayやオフスプリングなどのバンドに代表され、日本では、『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)にも出演したギタリスト・横山健が在籍しているHi-STANDARDと言えば、ピンと来る人も多いだろう。
メロコア、スカコアと呼ばれたムーブメントの中で、オリコンチャートの上位にもランクインし、その名をとどろかせたバンド、SNAIL RAMP(スネイルランプ)。そのフロントマンでもあり中心メンバーだった竹村哲(あきら)。
現在50歳の彼は、43歳のときに第12代NKBウェルター級王座を獲得。現在は、ジムのトレーナーとNKBのマッチメイクを務めている。インタビュー#1では、唯一無二ともいえる竹村のキャリアに迫った。
ブルーハーツに衝撃。文化祭でバンド結成
──子どものころは、どういうタイプの子でしたか?
「活発な子で、小学生くらいのときに“格闘技をやりたい”って言ったらしいです。だけど、親がやらせてくれなかった。子どものころは短気で、何かあるとすぐ手が出る子どもだったんで、格闘技を習わせたら人にケガさせるからって心配されたんです。親には“剣道だったらいいよ”って言われてやり始めたんですが、稽古が始まる30分くらい前に道場に行って、面とか籠手をつけてそこでボクシングやるっていう(笑)」
──音楽はいつごろから興味を持ち始めましたか?
「中学校からどんどん音楽に興味が傾いていきましたね。その当時、ラジオのヘビーリスナーだったんですが、ラジオ番組の中で流れてきたのがザ・ブルーハーツの『人にやさしく』。瞬間的に“うわっすごいな”って衝撃を受けたんです。これがパンクロックって言うんだって知って、いろいろと聴き始めました」
──バンドを組み始めたのはいつごろでしたか?
「高校文化祭で、みんなライブやったりするからそれに出ようぜってなったんです。そこで、バンドを組んだ。4人バンドで、僕はボーカルでした。当時、イカ天ブーム(注:TBS系で’89〜’90年に放送された『三宅裕司のいかすバンド天国』に端を発するバンドブーム)の真っ最中で、『えび』っていうパンクバンドがいたんです。僕はえびが好きだったんで、それをコピーした。人気投票したらブルーハーツには負けたけれど、僅差で2位になって意外と盛り上がったんです」
──スネイルランプをやる前には、ほかのバンドも組んでいましたか?
「スネイルの前には2つくらいバンドやりましたね。メンバーを探さないとと思いつつも、だらだらと日ばかりが過ぎていっていました。当時は、“メンバー募集”って紙に書いて、スタジオや楽器屋さんに貼っていたし、あとは音楽雑誌に募集も載せていたんです。今、考えるとありえないですけどね。家の住所とか電話番号が載っているって(笑)。知らないやつから家電にかかってくるんですよ」
──スネイルランプのメンバーはどうやって集めたのですか?
「スネイルのメンバーは雑誌の“メン募”もあったけれど、メンバー探しのサークルっていうのがあって、そこで見つけたんです。2週間に1回くらい、集会所みたいな場所に行くと、そこに集まった人間だけじゃなくて、それまで訪れたやつのパーソナルデータが、小学校のときのサイン帳みたいなものに書き込まれてファイルされているんです」
──凄いアナログですね。
「どういう音楽が好きとか、どんなメンバーを探しているかというデータもファイルされているから、その中からギター候補を何十人もピックアップして片っ端から電話をかけましたね。その中で話が合いそうだった10人位をスタジオに呼んで、オーディションをしました」
──竹村さんが楽器を始めたのはいつだったのですか?
「20歳でベースを始めました。スネイルを作ったのが25歳でメジャーデビューは28歳のときです」
──なぜベースを選ばれたのですか。
「一番弾かなくてもバレないかなって(笑)。僕は楽器を弾きたいわけではなくて、ライブがしたかった。暴れたい衝動のほうが強かった。ボーカルはルックスもいいやつを探して、自分は違う要員としてバンドにいたかったんです」
──でも、実際はベースを弾きながらボーカルもされていますよね。
「ボーカルがなかなか見つからなくて、とりあえず仮で僕が歌っていたら、“タケちゃん歌ってるから、そのまま歌っちゃえば”って感じで始まった。
’95年春に結成して、その年の年末にはドラムが抜けたんですが、そのタイミングで代わりに石丸が加入したんです。僕は“やっぱりボーカルを入れたほうがいい”と思ったので、再度、ボーカルを探して1回、4人でライブをやって。そのときのボーカルが米田という、のちにギターで加入するメンバー。本当は米田をボーカルで入れたかったけれど、3人バンドのほうがいいって周りに言われて、加入を見送るんです。結局、その後にギターが抜けたので、米田にメンバーになってもらいました」
28歳でメジャーデビュー。メロコア、スカコアブームの渦中に
──そこで、メジャーデビュー時のメンバーがそろうのですね。
「1枚目のアルバムはディスクユニオンのPHALANX (ファランクス)というレーベルが“出したい”って言ってくれたんです。当時は、スカパンクと呼ばれる音楽シーンが盛り上がり始めた時期。でも全国的なムーブメントにはなっていなかった。
ファランクスがRUDE BONES(注:’93年結成のスカムーブメントの先駆者的バンド)のCDを出したり、LIFE BALL(注:銀杏BOYZにも影響を与えた、’90年代に活動していた伝説のスカパンクバンド)が当時としては驚異の1万枚を売ったんです。その流れでうちはファランクスからファーストアルバムを出して、翌年に自分のレーベル『SCHOOL BUS RECORDS』を立ち上げて、マキシシングルを出しました」
──いきなり自分たちのレーベルを立ち上げるのは勇気がいりませんでしたか?
「レーベルを作るときは、絶対に人が入れば入るほどもめる原因になると思って。特にお金が絡むじゃないですか。だから全部自分の資金でやりました。あとは自分たちのCDだけではなくて、後輩のバンドのCDを出してやりたいっていうのがありました」
──レコードショップに自らCDも搬入されたそうですが。
「行けるところは自家用車でCDを持っていて納品していました。売ってくれる人とつながっておきたいっていう気持ちが強かった。現実的な話、お店の人と仲良くなったほうが扱いがよくなるんですよ」
──そういったノウハウはどのようにして学んだんですか。
「最初は全然わかんなかったですよ。レーベル経験がなくていきなり始めたから、みんなどうやっているかわからなかった。CDってどこでプレスすればいいんだろう? から始まっていて、周りに聞いてみるんだけれど、ライバルが増えるからみんな教えたがらない。意外とケチなんですよ(笑)。でもKOGA Records(注:創業27年の老舗インディーズレーベル)の古閑さんは教えてくれたんです。だから、最近になってKOGA所属のKEYTALKが売れたときは僕も嬉しかったですね(笑)」
──CDをリリースするのに大変だったことはありましたか。
「CDプレスの会社にTシャツ、短パンで行くじゃないですか。取引先にしてみれば “プレス代とか百何十万円も払えるの?”ってなる。露骨に“お金を最初に払ってくださいね”って言われましたし。逆の立場になったら、当然っちゃ当然ですよね」
──英語詞は珍しかったと思うのですが、どうしてスネイルの歌詞は英語詞にしたのですか。
「日本語で詞を書く才能がなかったんですよ。才能のない歌詞ほどつまらないものってないじゃないですか。だったら“ふふふん”のほうがよくない? みたいな。ぱっと聴いたときに歌っている内容は一緒だったとしても、英語だと自分のウィークポイントを出さなくてすむっていうのが大きい」
──文法とか気にされていました?
「いや、文法とか本当めちゃくちゃで。英語圏の人に“俺たちの歌詞って、英語レベルはどれくらい?”って聞いたら、”アメリカだと3歳くらいの英語”って(笑)。でも“それでいい”みたいな」
『HEY!HEY!HEY!』に出演。あのモーニング娘。からの一言
──’99年にダウンタウンがMCを務める『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(フジテレビ系)に出演されたことも印象的でした。出演はどのようにして決まったのですか?
「『FACTORY』(注:’98年からフジテレビで放送されていた公開収録形式の音楽番組)に、結構呼んでもらっていたのですが、『HEY!HEY!HEY!』は『FACTORY』と同じチームという経緯で声がかかったんです。でも出演者の枠をうちのバンドか、ほかのアーティストかどちらかにするって言われて、『MIND YOUR STEP!』(スネイルランプの2ndシングル。オリコン最高7位)のオリコン順位で決めるって言われていましたね」
──当時は、GLAYや宇多田ヒカルさんなどミリオンヒットが連発されていた年ですよね。テレビに出ることはどう思っていましたか?
「テレビ出るっていうのが嬉しかったというよりも、ダウンタウンに会えるほうが喜びとしては大きかった。でもテレビは出れば出るほど消費されるから、出すぎないようにしようって思っていました」
──『HEY!HEY!HEY!』には、まさかの衣装が濡れたまま出演しようとしたそうですが。
「そうなんですよ。(渋谷クラブ)クアトロのワンマンからお台場まで車で行っていたら収録時間に間に合わないから電車移動で。雨が本降りでズボンの色が変わってしまったんです。僕ら衣装さんとかいないのでそのまま出ようとしていたんですが、モーニング娘。の飯田圭織さんが指摘してくれて」
──ご自分では気づかなかったんですか。
「言われないと気がつかないほど素なんですよ。飯田さんが指摘してくれたおかげで、モー娘。のメイクさんチームがババって来てくれて、ドライヤーを持ってきてズボンを乾かしてくれたんです」
──よかったですね(笑)。番組内でもダウンタウンからお金の話を振られていた記憶があります。
「“もうかってるらしいじゃん”って言われて。ちょうど新しい時計を買ったころで、ツッコまれましたね。あのときは、トークを“めっちゃ頑張るぞ”って思っていました。とにかくしゃべんないと始まらないって思ったから、頭のなかで何かがぐわーって回転するイメージ。おかげで松ちゃんから“ガッツあるな”って言われたんです(笑)」
好きだったバンド活動が、ストレスに
──順調そうに見えたバンド活動ですが、どうして活動休止されたのですか?
「2002年9月で辞めたときは、本当にもう疲れちゃった。それまではバンドが好きで、ライブをやっていたんです。でもそれが、いつしか“ライブをやらなきゃいけない”とか、“バンドをやらなくちゃいけない”、“曲を書かなきゃいけない”になって。そういう状況に本当に疲れちゃって。喉のダメージも結構ありましたね。つねに声が半分、枯れたような状態でした」
──当時のスケジュールも過酷だったのでしょうか。
「ツアーに出ると2日連続でライブをやらなきゃならなくて、1日やって1日休ませてもらえる状況じゃない。スタッフも多いし、ランニングコストがかかっちゃうんですね。休めても2日に1回はライブを続けていかなきゃいけないのがきつくて」
──好きだったことが、ストレスになっていったんですね。
「そうなんです。喉のコンディションがストレスになっていた。つねに湿度のパーセントが気になり出しちゃったり。ちょっと病的になっていましたね」
インタビュー#2では、キックボクシングとの出合い、バンドとキックボクシング両立の葛藤、43歳でのチャンピオン獲得について迫る。
(取材・文/池守りぜね)
《PROFILE》
竹村哲(タケムラ アキラ)
1971年東京都生まれ。1995年にスカパンクバンド『SNAIL RAMP』を結成。2000年にリリースしたアルバム『FRESH BRASH OLD MAN』でオリコン1位を獲得するなど、一時代を築く。バンド活動と並行し、2001年からキックボクシングを始め、2014年10月に43歳の年齢でNKBウェルター級チャンピオンに輝く。2015年12月12日には後楽園ホールにて引退試合を行った。2021年にキックボクシングジム「TOKYO KICK WORKS」をオープン。