お笑いライブを年間700〜1000本も企画している株式会社K-PRO。その代表が児島気奈(こじま・きな)さんだ。テレビのバラエティ番組に出演して若手芸人さんを紹介することもある。間違いなく、日本でトップクラスのお笑いオタクである。
インタビュー第1弾では、児島さんがなぜお笑いライブにハマったのかを幼少期から振り返っていただいた。後編では「K-PROの発足秘話」「20年もお笑いイベントで芸人さんを見てきているからこそわかるお笑いライブの魅力」について語っていただく。
【児島さんインタビュー第1弾→年間1000本以上のライブを企画する『K-PRO』代表・児島気奈さんが振り返る「お笑いばかり考えてきた人生」】
罵倒し合ってネタで勝負! K-PROの記念すべき初回イベントは「K-プロレス」
──前回の記事で「高校生ではじめてお笑いライブのお手伝いをしたこと」までを教えていただきました。高校卒業後はそのままイベントのスタッフとして働かれるようになるんでしょうか。
「ボランティアスタッフとしていろんな現場でお手伝いをしていました。一応、高卒後に推薦で大学に入ったんですけど、そもそも興味がない学部だったこともあって、入学式以降は授業に出なくなっちゃったんですよ。それで2年生のときに中退しました」
──その後は就職を?
「いえ、就職したことはありません。親が自営業だったこともあり、そもそも『お給料をもらう』という発想がなくて『お金は自分で稼ぐもの』と思っていたんですよね。それでフリーランスとして、都内各所のライブハウスでお手伝いをしていました。
そのころはアルバイトのあと、ライブのお手伝いをして、朝まで深夜稽古につきあって、次の日もライブのスタッフして……という毎日でしたね」
──いやもう大学の授業とか出られるわけない(笑)。
「そうなんですよ。芸人さんと一緒に貧乏生活をしていたような感覚で、当時は楽しかったですね。
そんな感じで毎日どこかでスタッフをしていたら、2004年に知り合いのスタッフさんから、“今度の休日にライブ企画してみない?”と誘われたんですよ。それで、ライブをやってみることになりました」
──おぉ、これがK-PRO発足のきっかけになるわけですね。
「はい。このときに『プロレスのマイクパフォーマンスみたいに芸人さんが互いに罵倒し合ったうえで、ネタでどっちがおもしろいか決める』という企画をしました。ライブ名は誘ってくれた先輩スタッフさんの頭文字をいただいて『K-プロレス』にしました。それがのちに『K-PRO』となったんですよね」
──「お互いに罵倒し合ったあとに勝敗をつける」って、イベント自体がもうバッチバチでめちゃめちゃ面白そうですね(笑)。
「今でも“1回目の企画としては最高傑作なんじゃないか”ってくらい大成功でしたね。“おまえなんてどうせ顔ファンしかいねぇじゃねぇか!”、“おまえは顔ファンすらいねぇじゃねぇか!”みたいに罵り合ったあとに、“じゃあネタで勝負だ”っていう。自分のなかでは好きなライブの見せ方ができたと思います」
──芸人さんは『好きなスタイルがある』という話は聞きますが、主催者側にも好きな見せ方があるんですね。
「あります。私は、“笑えるだけじゃなく、応援したくなる”ような企画が好きです。コンテストとかランキング形式にすると、芸人さんも一喜一憂するじゃないですか。お笑いファンの方はその姿を見て、“応援したい”と感じると思うんですよ。
そうすると芸人さんに対して『面白い』だけでなく『かっこいい』と感じられる。お笑いの楽しみ方がより広がると思うんですよね」
赤字が続くイベント、それでもブレない「面白い人」へのこだわり
──ここからK-PROさんは、本格的にイベントを打ち始めるんですね。
「そうですね。今もそうですけど、若手芸人さんがライブに出るためには事務所のオーディションを勝ち抜かなきゃいけません。落ちてしまった芸人さんは自分たちでバイト代をカンパしてライブをしていたんですよね。“じゃあそのライブを代わりに主催しよう”という気持ちで始めました。
K-PROを立ち上げたときって、世間には『プロダクションや劇場主催のライブ』と渡辺正行さんの『ラ・ママ新人コント大会』、あとは放送作家さんや芸人さんが自分たちでやる『勉強会ライブ』くらいしかありませんでした。今とは違って『作家やスタッフが個人でライブを主催する』ということが珍しかった時代でしたね」
──最初は苦労がありそう……。
「大変でしたね〜。まずK-PROの素性を誰も知らないので、事務所に“この芸人さんをライブに呼びたいんです”と交渉しても、全然取り合ってくれないんです。出演者を集めるのも必死でした。また、ライブシーンも『ボキャブラ天国』(フジテレビ系。1992〜1999年まで放送されたバラエティ番組)以降は“過疎の時代”が続いていたので、集客にも苦労していました」
──なるほど。お笑いライブ自体があまり注目されていなかった。
「お客さんが10人以下のライブもたくさんありましたね。
ただ『吉本が東京に劇場をつくった』とか『M-1グランプリが始まった』という出来事が重なって、お笑いライブ界隈の世代交代が起きたり、注目度が上がったりしてきたんですよ」
──なるほど。少しずつライブシーンに追い風が吹いてきた。
「はい。そこから『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)や『エンタの神様』(日本テレビ系)、『爆笑レッドカーペット』(フジテレビ系)などのテレビ番組が人気になり、ちょっとずつ若手芸人ブームが始まったんですよね。
ライブシーンの若手芸人さんでも、お客さんをたくさん連れてくる方もちらほら現れたりしました。
それでもずっと赤字でしたね。劇場のレンタル代が数万円なのに、チケット代は500~1000円に設定していたので……。赤字分はスタッフが自腹でバイト代を持ち寄って補填して、月に1回の主催ライブを無理やり運営していました」
──すごい。数年間も赤字が続くのにイベントを打ち続けるって、相当なモチベーションがないとできない……。このときのやりがいは、インタビュー第1弾で語っていただいた「ほめられたい」願望に近いんですか?
「いえ、このころは同年代か年下の芸人さんと一緒にやっていたので、“兄さん! ほめて!”っていう感じではなかったですね。それより、“これからの世代が売れていく様を最初から応援できる”というほうが近かったです。
それと、続けることで少しずつK-PROの認知度が上がってきたのも、モチベーションになりました。だんだんと芸人さん側から、“K-PROさんのライブに出してくださいよ”と言ってもらえるようになったんです。事務所の方もトップクラスの芸人さんを出してくれたりとか。それでライブをやめられなくなった部分もありますね」
──続けるうちに界隈での評価が高まってきたんですね。ただ、「出してくれ」っていう芸人さんを全員採用していたらブレるというか……。ぶっちゃけ、全員が全員おもしろいわけじゃないですよね。そこは選んでいたんですか?
「スタッフと最初に決めた約束は、“仲がいいってだけで出すのはやめよう”でした。だから必ずお客さんから愛される『面白い人』を厳選していますね。それと、仲がいい芸人さんだけを集めると、どうしても『身内ノリだけのライブ』になってしまう。すると新しいお客さんも来てくれないので、このあたりはシビアに選んでいました。
この判断はいま考えたらすごく大きかったです。仲のいい周りの芸人さんだけで出演者を決めてしまっていたら、ここまで続かなかったと思いますね」
好きな芸人さんは「俺がいちばん面白い」と思っているタイプ
──なるほど。長く現場にいても決して馴れ合っていないのがかっこいいです。児島さんが好きな芸人さんというか、応援したくなる芸人さんってどんなタイプなんですか?
「『俺がいちばん面白い』って思っている芸人さんが好きです。『おふざけをして、お客さんを笑わせないと仕事がない』っていう厳しい世界だからこそ、誰よりも面白いと思わないといけない。本気さがあるから、そこにドラマが生まれるし、芸人としてのかっこよさが出てくるんだと思います。
最近は『M-1グランプリ』(テレビ朝日系)のインタビューで目標を聞かれて、“準々決勝進出です”って答える若手も多いんです。“いや、そこは優勝でしょ”と思いますね。上位100組で甘んじてるようではダメじゃないかと」
──「芸人さんの世界の厳しさ」は、児島さん自身が会社に属したことがないからこそわかる部分でもありますよね。
「そうですね。スタッフ、演者ともに続けるも辞めるも自己責任ですからね。でも芸人さんは、“辞めたら自分には何も残らない”という感覚があるから続けているんだと思います。卓球の福原愛ちゃんみたいな……。泣きながらでもラリーを続けるみたいな感じというか」
──「自分はお笑いでしか生きられないんだ」という泥臭さも芸人さんならではのかっこよさですよね。
「芸人さんのなかにも、“もうこの人は生き方そのものが芸人だな”という人もいれば、“職業としてお金を稼ぎたいからやっている”という人もいます。私はどうしても現場育ちなので、前者のほうが共感できますし、やっぱり応援したくなりますね」
──これまでの児島さんの人生をお伺いすると、その気持ちがよく伝わります。
「数年前に、“同じおふざけでもYouTuberのほうがもうかるじゃん”っていう時代があったんです。そんななかで“舞台に可能性を感じてくれる人”は応援していたいですね。
もし、“お笑いライブに出ていても売れないじゃん”と言われるような状況になってしまったら、それこそ、“YouTuberのほうが売れるじゃん”ってなってしまう。だから『過去に舞台から出て売れていった芸人さんの話を伝える』のも私の役目だと思っていますね」
──客前での雰囲気や熱量は、お笑いライブを経験していないとわからないですよね。
「そうなんですよ。例えば今では、“バナナマンさんに憧れている”って言う若手の芸人さんに、“バナナマンさんのライブ観たことある?”って聞いたら、“テレビでしか観たことない”って返ってくることもあります。私としては、それでいいの?って。やっぱり客前で一発勝負の舞台とテレビやYouTubeとでは、緊張感も、間の取り方も違います。
ステージに立つ芸人さんがいる限りは『舞台を知ることの大事さ』を伝えたいですね」
「ナルゲキが好きだから来たい」で“次のステップ”を実感
──そのなかで2021年の4月6日に寄席小屋の「西新宿ナルゲキ」をオープンされました。これまでの芸人ファーストな姿勢をお伺いすると「コロナ禍だからこそ」という感覚もあったんだろうな、と。
「そうですね。芸人さんにとってもファンの方にとっても、“そこに行けば毎日何かしらのお笑いライブをやっている、という場所を作りたい”という気持ちはありました」
──ナルゲキについてお客さんからの評判はいかがですか?
「それまでは『K-PROが考えたもの』という面で評価していただいていたのですが、オープンして1年以上がたち、今では、“ナルゲキが好きだから”というお声をいただけるようになりました。
『K-PRO』というくくりから一歩先に進んだ感覚がして、自分たちにとっても次のステップに進んでいると思いますね。お客様から、“お笑いってかっこいいんだ”と感じてもらえるような場所にしていきたいと思っています」
──私も伺ったことがありますが、初めての人でも楽しめる環境ですよね。パイプ椅子を並べている劇場が多いなか、ナルゲキは映画館みたいな座り心地のいい椅子になっているし、アングラ感もなくてポップな雰囲気です。「家族でも来れるなぁ」って思いました。
「ナルゲキは常に、“初心者の方・初めての方、大歓迎”と言っています。というのも、“お笑いを観るために劇場やライブハウスに行く”って、けっこう勇気のいる一歩だと思うんですよ。私自身、最初は『友だちに誘われたから行った』ので。
でも、行動したことによって世界は本当に広がると思うんです」
──児島さんのように人生を豊かにしてくれる出会いもありますよね。
「はい。だから、“お笑いをテレビで観るのは好きだけど、ライブハウスはちょっと怖い”と考えている方にこそ、安心して来てほしいですね」
新たな”壁”を登り続ける強さに感じた「ひとつのことを極めるためのコツ」
とにかく“芯”の強い方だった。
仕事にしても趣味にしても「壁」にぶつかる瞬間はどこかで訪れる。そこから背を向ける人もいれば、横道を探す人もいる。その点、児島さんは灰皿を投げつけられても、赤字続きでも真っ向からガンガン壁を登っていく。
これが、とんでもなくかっこいい。“優しい世界まっただなか”の2022年では、スパルタ・スポ根チックなエピソードは見なくなった。嫌なことから逃げることは、場合によってはすばらしい選択だ。しかし、何でもかんでも逃げすぎて「頑張りたい」という必死さを忘れてはいけない。「好きなことに対する情熱や意地」は、昭和とか平成とか令和とか、時代は関係ない。人生を豊かにするうえで大切な感情だ。
いま彼女は「お笑いライブ界隈の人であれば、知らぬものはいない」というほどの存在になった。しかし進化は止まらない。彼女は「西新宿ナルゲキ」を作り、また新たな壁を登っている。常に「お笑いライブ」というくくりのなかで新たな課題を見つけ、高みを目指す姿勢。ここに「何かひとつのことに熱中し続けるためのコツ」がある。
そんな彼女が運営する西新宿ナルゲキは、先述した通り「初心者の方も来やすいお笑いの場所」である。初めての方も、家族連れも気軽にふらっと行ける“敷居の低い寄席小屋”だ。「テレビではお笑いバラエティをよく見るけど、現場には行ったことがない」という方にこそ、ぜひ訪れてほしい。
もちろん寄席を見て腹を抱えて笑える。それだけでなく、画面越しではわからない芸人さんの必死でかっこいい一面を知れる。すると、忘れかけていた「何かを必死に追い求める気持ち」を思い出すこともあるだろう。「お笑いライブ」は、ただ笑えるだけでない。人生を楽しむためのヒントを見つけられる場所なのである。
(取材・文/ジュウ・ショ)