架空のニュースをリアリティたっぷりに伝えるニュースメディア『虚構新聞』。今回はその社主・UKさんへのインタビュー企画だ。
前編では虚構新聞を立ち上げた背景、制作時に気をつけていること、メディア芸術祭受賞時の裏話などを聞いた。
後編では2000年代~2020年代までの「虚構新聞のとらえられ方の変遷」について聞いた。フェイクニュースが出てきた超情報社会の今、UKさん自身も社会派の番組に登場する機会が増えた。そんな今、UKさん自身は虚構新聞をどう読んでほしいと思っているのか。
【前編→「ウソ」で笑えるメディア『虚構新聞』はなぜ長く愛される?フィクションを現実っぽく見せるうえで大切なコト】
虚構新聞は”ウソ”ではなくフィクションの創作
──UKさんは、ここ最近「ネットニュースでウソをウソと見抜く方法」みたいな、ちょっと社会派の企画でよくメディアに出演されているように思います。
「そうですね。情報が氾濫してフェイクニュースが増えていくなかで、専門家的なポジションでお声がけいただくようになりました」
──個人的にはちょびっと違和感があるんですよね。10年前の虚構新聞はそんな仰々(ぎょうぎょう)しいものではなく、もっと肩の力を抜いてフランクに楽しむメディアだったはず……という気もするんです。
「そうですね。たまに“ウソのニュースを発信されていますが、どう思いますか”みたいな質問をいただくこともあり、困っちゃう部分もあります。“あぁ、なるほど。そういう立ち位置の人として呼ばれてるのね”みたいな(笑)」
──そうですよね(笑)。そもそも虚構新聞はウソを書いているわけじゃない。創作でありフィクションです。
「そうなんですよ。新聞”風”ですが、私としてはフィクションを作っているつもりなので、創設時から“ただ読者に笑ってほしい”という一心で記事をつくっています。創作全般をウソだと言い出したら、小説やマンガも全部ウソってことになってしまいますし」
──逆に「コロナ禍で運動会に2メートルバトン登場」や「種なし柿の種発売」など、発信後に事実になることもありましたよね。逆にそれが虚構新聞としては”誤報”ということになる。
「はい。その都度、お詫び記事を出して訂正・謝罪をしています。それは本当に申し訳ないです。反省しています」
──虚構新聞がネットリテラシーの文脈で見られていることについてはどうお考えでしょうか。
「嫌な気持ちになるとかはなくて“そういう見方もあるんだなぁ”と思いますね。メディア芸術祭で受賞したときもそうですが、人によって虚構新聞のとらえられ方が違うので、おもしろいと思っています」
「たかがインターネット」という感覚がリテラシーを高める
──ちなみに立ち上げ当時「読者からフェイクニュースと勘違いされるかもしれない」というリスクは想像していたんですか?
「いえ、本文を読めばオチがついているので、そこで気づいてもらえるだろうと。それにそもそも媒体名が『虚構新聞』ですし。
ただ開設当初、虚構新聞の見出しだけをコピペして別のニュースサイトに転載されることがあったんですよ。それだと見出ししか載らないので、さすがに事実のニュースと混同される可能性があると思いました。
だから見出しの隣に、白の背景に白文字で“これは嘘ニュースです”と書いているんです。これなら見出しをコピペしたときに気づけるので」
──え~、これは知らなかったです。リアリティを保ちつつも勘違いを避けるための工夫ですね。
「勘違いという意味では、立ち上げ当時から、悪い意味でのフェイクニュースサイトも技術的には可能だろうなとは思っていました。ただ、読者を楽しませる以外の動機が思い浮かばなかったので、そんなサイトを手間暇かけてつくる意味はないだろうと思っていたんですよね。
でもその後、ネットに広告収入の仕組みが入ってきて、アクセス数と収益が結びつくようになりました。そこでフェイクニュースをつくる動機が生まれたのかな、と」
──なるほど。しかし趣味で創作をしているUKさんに「ネットリテラシー」の文脈でメディアから声がかかるということは、この19年で読者のインターネットに対する感覚も変わってきているんですかね。
「個人的には19年前と比べて、相対的にネットリテラシーが下がってきているのかな、と思っています」
──「相対的に」ですか。
「以前、今ほどWebやSNSの文化が流行する前は、インターネットって“たかがインターネットやん”くらいの感覚だったと思うんですよ。ネットで拾った話題を人前で話すのがちょっと恥ずかしいというか、後ろめたいというか。”信用できる情報じゃない”というのが前提にあるので、話しにくかったですよね。
そういう話を人にするときは“ネットで見た話なんだけど”という枕詞をつけるのが普通でした。インターネットを使う人みんなが情報の整合性を疑っていた、リテラシーの高い環境だったと思います」
──たしかに。みんなネットの情報は懐疑的に見ていましたよね。単純に”オタク”と思われる怖さもありましたが(笑)。
「でも今はインターネットの人口が増えて、ネットの情報を素直に受け入れてしまう人も増えてきた。もう誰も“ネットで見た話なんだけど”ってわざわざ言わないじゃないですか。新聞・テレビといった昔からあるメディアと並ぶレベルで説得力を持っていると思っている人が増えたんじゃないでしょうか。
そんな中で、20年前と比べて相対的にリテラシーが下がってきていると感じるんです。でもそれは多くの人がネットを使うようになった結果でもあるので、だからよい悪いという問題でもないと感じます。
発信者が正しい情報だけを伝えるべきであるのはもちろんですが、私は受信する側も以前のように“たかがインターネット”という感覚をもっと大事にしたほうがいいと思います。ネットリテラシーを高めたいのであれば、たとえ本当の情報だったとしても、ネット発祥ってだけで疑っていた疑心暗鬼の時代の感覚を思い出すことが必要だと感じますね」
──なるほど。一人ひとりが「思考する力」も失われつつあるように思います。以前であれば自分で情報の整合性について考えて判断していましたが、今は膨大な情報を処理する時間がないというか……。Web社会において正しい情報だけを見抜くことは難しいんでしょうか。
「私はシンプルで簡単だと思いますよ。そんなに難しい話ではなく、要するに“信頼に値するメディアの情報だけを仕入れて、他をシャットアウトするだけ”です。
時事ニュースの情報源なんて、大手の新聞やテレビ局のニュースをいくつかフォローしていたら十分じゃないですか。本当に重大なニュースなら必ず耳に入ってくるし、わざわざ膨大なデータの中から正しい情報を見抜くという作業自体が必要ないと思いますけどね」
古くならず、時代に合わせて進化するコンテンツに
──虚構新聞自体のテイストは時代に合わせて変わっていっているんですか?
「そうですね。基本的には変えていないのですが、だんだんとブラックユーモアは少なくしています」
──書籍化された『虚構新聞 全国版』で下のほうに「訃報」の欄があったりしましたよね。めっちゃ笑いました。ドラゴンボールのヤムチャが亡くなっていたりして(笑)。
「そうですね。訃報は実際の新聞に寄せてつくったパーツで、個人的にも考えていて好きだったんですが、最近はたとえネタでも“人が亡くなる話”自体がネガティブに受け取られて、あまり楽しまれないんじゃないかなと」
──ファンとしては変わらずやってほしいところもあります(笑)。
「いや、それだと老害化しちゃうと思うんですよね。昔から読んでくださる同世代は楽しんでくれるでしょうけど、自分より若い世代の価値観とはどんどん離れていってしまう。
さっきのヤムチャの訃報も世代的には受けるんでしょうけど、リアルタイムでドラゴンボールを知らない若い世代は、そこに“加齢臭”をかぎとってしまうかもしれない。長く愛していただくためにも、時代に合わせて求められていることは見定めています」
──なるほど。前編で「共感されるコンテンツづくり」のお話がありましたが、常に読者を意識してつくっているのを感じます。その姿勢こそが長く愛される根本的な要因というか、とても素敵だなぁ、と。
「そうですね。始めた当初から“読者とのキャッチボールが大事”という考え方は変わっていません。特に虚構新聞は基本ボケっぱなしで、読者の方にツッコんでもらって、初めて笑いになると思うので(笑)」
──そうですよね。私自身、友達と爆笑しながら「いや何言ってんねん」「そんなわけないやん」と連発していた記憶があります。
「いまでも高校生の方から、メールで感想をもらうことがあるんですが、その返信で“大丈夫? 記事から加齢臭してない?”って聞くんですよ。幸い、まだ若い子の感覚についていけてるようで安心しました(笑)。
19年前から今まで“読者の方に笑ってほしい”と思いながら記事をつくってきました。今後もマイペースに更新していきますので、ツッコミながら気軽に楽しんでほしいですね」
ニュースを軽やかに笑いに変える虚構の力
受験勉強中の高校3年生のとき、虚構新聞を初めて読んだ。「円周率ついに割り切れる」という記事で、当時「え、マジで? 3.14はどうすんのコレ」と衝撃を受けたが、すぐにフィクションと知って爆笑したのを覚えている。
それからシャーペンはマウスに、筆算は右クリックに。友人宅で虚構新聞を読みふけるようになり、がっつり志望校に落ちた。しかし引き換えに暗いニュースも明るく笑い飛ばす楽観的な力を得た。
政治への不満も、社会への違和感も、虚構新聞の前ではすべて”フリ”だ。記事で高度なボケに昇華してくれて、読者のわれわれが「いや、ありそうやけど!」と笑いながらツッコむ。その、たった5分でもうイライラは消えてなくなる。
UKさん自身「存在意義がわからないと言われると反論できない」とおっしゃっていたが、きっと虚構新聞に存在意義なんて必要ない。何でもかんでも存在意義が必要なユーモアのない社会はどうにも生きにくいに違いない。虚構新聞のような重いニュースを軽やかな笑いに変えるコンテンツが更新され続ける限り、世の中はきっと平和なのである。
(取材・文/ジュウ・ショ、編集/FM中西)