著書『人は話し方が9割』(すばる舎刊)が110万部突破の大ベストセラーとなった、株式会社人財育成JAPAN代表取締役の永松茂久さん。大分県で生まれた永松さんは2001年、わずか3坪のたこ焼きの行商から商売を始め、’03年に開店したダイニング『陽なた家』は、口コミだけで毎年4万人を集める大繁盛店になりました。以降、自身の経験をもとに「一流の人材を集めるのではなく、今いる人間を一流にする」というコンセプトを掲げ、コンサルティングや講演、執筆活動に精を出しています。’22年10月21日には新刊『君は誰と生きるか』(フォレスト出版)が発売となる永松さんに、大切にしている考え方や、“狭く深く”の人間関係によって成功への道を切り開いてきたエピソードを伺いました!
“日本一の大商人”に学んだ「大事な人脈は、すでに目の前にある」ということ
──新刊『君は誰と生きるか』は、永松さんをベストセラー作家の道に導いた師匠であり、実業家兼作家の斎藤一人さんとの対話とのことですが、テーマや内容を教えていただけますか?
「斎藤一人さんは、“日本一の大商人”として実業界でも有名な方で、ベストセラーもたくさん出されています。17年前の出会いから今までの2人の会話を、“今なら書いてもいいかな”と思い、対談形式で1冊にまとめました。テーマは、“人脈は狭ければ狭いほどいい”。普通なら、“人脈を広げよう”と言う人が多いかもしれませんが、逆に“人脈を狭め、本当に大切な人を大切にしよう”というメッセージを伝えたいんですよね。
例えば、ひとりの人とどれだけつながれるか、と考えてみたとき、人脈を広げたら、深くつながることができるはずありません。しかし、昨今ではSNSの発展とともに、1人でも多くの人と出会うことや、できるだけ多くの友達・フォロワーを増やすことに躍起になり、結局、大切な存在を忘れてしまう人が増えています。ですから、あえて真逆のメッセージを伝えたいんです。それが、飲食業で成功するための心構えとしていた、師匠からの教えだからです。
この世の中には、人がつながっている水脈みたいなものがあると思っています。そこを掘り当てるまで、ドリルでどんどん掘っていく。その掘る作業というのは、人に喜んでもらうことだと考えています。その喜びが、ひとりに対して深くなっていけばいくほど、水脈に早くたどり着く。でも、いろいろな人とまんべんなく付き合っていると、あまり掘り進められないんですね。つまり、ひとりの人をきちんと喜ばせたり、感動させたりすることができない。結果的に、広い人脈だと人間関係が浅くなってしまうということなんです」
──深く付き合える人間関係は、どうやって探せばいいんでしょうか。
「日本一の大商人である斎藤さんに、事業成功のための“ウルトラC”を教えていただこうと思って聞いたところ、返ってきたのは“スタッフや業者さん、お客さんという身近な人に大きな愛を持って接するんだよ”といった基本的なことばかり。“そんなことはわかっています”と言ったら、“わかっているのと、できているのは違うからね”と諭されました。
“難しいことはしなくていい、ただ基本的なことを徹底的にやれば、絶対にうまくいく”というのが、師匠の教えでした。
大事な人脈は無理して探さなくても、実は、すでに目の前にあります。家族ももちろんそうですが、例えば会社の同僚とか、飲食店なら来てくれるお客さん、ビジネスをやっている人であれば、長い付き合いのクライアントさんなど。今は多くの人が、人脈を広げようと外に向かって行きがちですよね。当然その過程で、お金と時間はどんどんなくなっていきます。それをやっているうちに、誰かひとりとの深い絆を失ってしまうことになるんです。それは、もったいないことだと思いませんか?」
── 110万部のベストセラー『人は話し方が9割』も、密度の濃い人間関係から生まれたんですよね。
「出版社さんも、散らさないよう数社のみに絞り、密度の濃いお付き合いをしています。その狭く深い付き合いの中で、公私ともに長い付き合いの出版社で働く営業の方が、この企画を持ってきてくれたんです。編集だけでなく営業も交えてみんなでワイワイ話をしているうちに、『人は話し方が9割』が生まれ、よい結果が得られました。いろいろな出版社とバラバラに仕事をしていたら、この本は成功しなかったかもしれません。同じ人とがっつり仕事をするほうが、結果的に効率がいいんですよ」
──人脈を広げようとするのではなく深めることで、人生の扉がどんどん開いていったというわけですね。
「『君は誰と生きるか』の帯袖に、“あなたの人生の扉の鍵を握っている人は誰か”と書いてあるんです。きっと、みなさん知りたいですよね。ほとんどの人が、人脈とか出会いを探すことで、誰かが鍵を持ってきてくれるはずだと思っているんですよ。でも、そうではなく、鍵を持っているのは自分の身近な人たちだということを伝えたい。その鍵を持っている人を大事にしていますか? 喜ばせていますか? そんなことを改めて考えてもらうための本です。
自分の書いた本を読んでいただくということは、読者さんと僕が1対1で向かい合うことでもあります。“この本に出会ってよかった”、“人生がこういうふうに変わりました”と言ってもらえること、すなわち、どれだけ役に立てるかどうかを、売上や部数より大切にしています。ひとりの人にどれくらい刺さるか。それが、本を書くうえでの僕の基本テーマなんです」
「たこ焼き屋になる」という夢を実現するものの、人間関係に悩まされ……
──子どものころから文章を書くことがお好きだったんですか? どんな少年時代でしたか?
「家にいることが好きだったんですよね。幼少期はカブトムシを育てたり、ミニカーで遊んだり、文章というよりは絵を描いてストーリーを考えたり、とにかく1人遊びが好きなタイプでした。小学生になると、活発に外で遊ぶようになりました。家が商売をやっていて、商店街のあるアーケードに住んでいたんですが、アーケード内が遊び場で、ローラースケートやスケボーで遊ぶ普通の少年でしたよ。
ちょっと変わっていたのは、小学校5年生のころから、そのアーケードにあったたこ焼き屋の手伝いをしていたことでしょうか」
──遊びたい盛りに、たこ焼きを作るほうが魅力的だったんですか?
「両親は商売をやっていたので忙しくて、“外で遊べ”と言われていたんですね。僕の家は商店街のど真ん中にあったので、外といえばアーケードということになります。そこで遊んでいるうちに、家の近くにあったたこ焼きのテイクアウト店に入り浸るようになりました。店のおばちゃんになついて、よく話を聞いてもらっていたんです。学校から帰ってきて、そのまま店に行き、“今日こんなことがあった、あんなことがあった”と話せる相手がいることが、うれしかった。同年代の子どもと遊ぶより、おばちゃんといるほうが楽しかったんです。大人の中にいるほうが、心地よかった。
そうこうするうちに、だんだん店を手伝うようになって、たこ焼きの作り方をイチから教えてもらうようになりました。小学生のときには、自分が手がけたたこ焼きを商品として売るようになり、“自分のたこ焼きを通して喜んでくれる人たちがいる”という快感を知ってしまったんです。買ってくれた人が、“昨日の焼き方はおいしくなかった”、“今日はいい味だね”などと感想を言ってくれるたびに、自分の仕事に対する手応えを感じました。“大人が、子どもである自分の作るものに、ちゃんと向き合ってくれているんだ”と。誰かが喜んでくれることに醍醐味(だいごみ)を感じ、その境地に至るツールがたまたま“たこ焼き”だった。この時点で、将来たこ焼き屋になろう、と決めました」
──そこで3坪のたこ焼き屋さんを始めるわけですね。どのように夢を実現していかれたのですか?
「10代の後半で、大分から東京に飛び出してきたんです。“たこ焼き屋になるための道を作ってくれる人脈を開拓したい”と必死でした。人脈という言葉すら知らないころ、ただただ、たこ焼き屋になりたいがために、“教えてください、力を貸してください”と、ひたすら出会いを探していました。結果的には、オタフクホールディングスの現社長である佐々木茂喜さんにたどり着くことができました。佐々木さんは当時、東京の支店長でしたが、彼の前で“たこ焼き屋をやりたくて東京に出てきました”と熱弁をふるっていたら、築地銀だこの社長に会わせていただけることに。そこでまた、たこ焼きへの情熱を熱心に語ったら、“じゃ、ウチくるか”と修業をさせていただくことになったんです。
その後、26歳で九州に帰って、3坪のたこ焼き屋の行商を始めました。それが軌道にのり、“笑顔が集まるもうひとつの家”というコンセプトのもと、『陽なた家』という店をオープンしました。バースデーイベントでショーをやり始めたら、全国から人が集まるようになり、やがてウェディング事業にまで発展していきました」
──出会いを求めて自ら動くうちに力を借りることができ、成功したわけですね。
「たこ焼き屋を始めた当初は、とても苦労しました。店を始めたはいいものの、店の中の人間関係が全然うまくいかなくて。スタッフがどんどんやめていき、諍(いさか)いばかりの毎日でした。古劇場のような形のオープンキッチンにしていたので、表面上は笑顔でお客様に向かっています。しかし裏では、“今日はこれを失敗してまた怒られた”と誰かが泣いている。そして、自信をなくしてやめてしまう。表では笑顔、を求められ、裏では沈んでいる……みんな、だんだんこの矛盾に耐えられなくなり、切羽詰まっていましたね。
それでも僕は、新しい出会いがあれば何とかなると思って、助けてくれる人を求めて、あちこち出かけていたんです。でも、結果的に救ってくれた人は、すぐ側にいたんです。うちの店に来てくれていたお客さんでした。
そのころは、相談に出かけた社長全員に言われました。“現場を大事にしろ”と。そう言われても、その現場がうまくいってない。だから僕はチャンスを探そうと、やみくもに人と会う。助けてくれる誰かを見つけたいという下心でいっぱいだったんです。
そんなとき、斎藤一人さんに、“君、そんな出歩いてどうするんだい?”と問われたんです。“いや、人生は出会いで決まりますから”と返したら、“お金と時間がもったいない”と言われ、ビックリしました。普通なら、“そうだよな、人生は出会いで変わるから、いろんな人に会え”とでも言ってくれそうなのに……日本一の大商人が放ったひと言は、価値観をひっくり返される衝撃がありました。続けて、“君にとって本当に大切な人って誰?”と聞かれ、言いよどんでいると、“答えを言おうか。それは君を頼って、君のことが好きだと言って集まってくれたスタッフたち、そして来てくれるお客様。これが君の最高の人脈だ”と。“えー!”と驚きながらたじろいでいると、“間違いなく、その人たちが君の人生の扉の鍵を持っているんだ”と断言されたんです。
今の時代、確かにSNSなどで、簡単につながりができるかもしれません。しかし実際のところ、それはただの“つながった感”です。じゃあ、本当のピンチに陥ったとき、その中の誰が駆けつけてくれるのか? おそらく、SNSでいつも“いいね”をくれている人は傍観していますよ。“つながった感”から広がるチャンスもなくはないかもしれません。でも僕はやっぱり、最大のチャンスは今、目の前にいる人たちの喜びを深めていくことにあると思っているんです」
亡くなった母からの言葉で一念発起、“出版革命”を起こすべく挑戦中!
──そのあとは飲食店をやりながら、作家業にも取り組み始めることになるんですよね。
「ウェディング事業もしていて、たまたま結婚式に来ていた出版社の社長に、“この店、面白いとは聞いていたけど本当だね。あなた、本を書いてみませんか”と言っていただき、31歳で初の著書『斎藤一人「もっと近くで笑顔が見たい」』(ゴマブックス刊)を書きました。最初は飲食業と執筆活動を並行していたのですが、スタッフやお客さんたちには、“オーナー、何やってるの?”、“ベストセラー作家になるらしいですよ”と、よく笑われていました。居酒屋のカウンターで、“今に見とけよ”と言いながら、本を書いていたんです。そのうち、本当に本が売れるようになり、講演の仕事が増え、その講演を聴いて店に来てくださったお客さんのビジネスの相談にも乗るようになりました。すべては成り行きだったんですよね。
飲食業・講演・出版事業の3本柱で走っていて、それぞれに相乗効果がありました。最初は本と講演ばかりに時間を割いていて、スタッフもふてくされていたんですが、30代後半ぐらいから、講演がない日に店に出ると、“なんでいるの”という反応に変わっていきました。“たまには休みたい”と言うと、“いや、どんどん講演に行ってお客さんを集めてきて”とまで言われるようになって(笑)。講演にいらした方がお客さんになってくれるサイクルができてきたんですね。そして、人財育成JAPANという会社を起業しました。本を書きたい、講演をしたい、起業したいと言う方に、そのノウハウやマインド的なものをお教えし、著者、講演家、そして名経営者として育成していく会社です」
──人生が順調に進んでいったように感じます。
「でも、そうやって突っ走っていたときに、母の病気と死を経験して人生を考え直したんです。母の遺書には、“あなたが日本一の作家になる姿を見てみたい”と書いてあった。“よし、じゃあまた東京に行こう”と奮起しました。飲食だったらどこでもできるんですが、出版は、やっぱり東京なんです。飲食業は、徐々にスタッフに引き渡していきました。当初は、講演依頼は引き続きあったものの、“やばいな俺、ほんとに出版だけになっちゃったよ”と、先行き不安でしたね。
そんな中、『人は話し方が9割』を出版できました。この本で、母親の遺書に書かれていた夢が、まさかの実現を果たしたのです。発売初年度の’20年から約2年半にわたってビジネス書の売り上げで日本1位、’21年は総合売り上げ日本1位。前者の記録は、おかげさまで歴代初とのことです。12月頭に発表があるのですが、下半期も日本一を取れたら、ビジネス書史上初の3連覇ということになります。初年度に日本一を取ったとき、母の遺影に、“母ちゃん、日本一になったよ”と報告したら、“おめでとう! ところであんた、この勲章を使ってこれから何するの”と言われたような気がして、本の力で日本を元気にしようと決めました。それには出版業界を元気にしなければならない。そして著者を元気にし、新しい著者を育成するための、出版プロデュース業をスタートさせました」
──その出版プロデュースから派生して、新たなプロジェクトを始められたそうですね。
「出版社と読者を巻き込んでの出版プロジェクトをスタートしました。キャッチコピーは、“本の力で日本を元気に”。そこから派生して、今は『チラヨミ』という、著者本人が登場してビジネス系の新刊を紹介する動画サイトのプロデュース、そして未来のベストセラー著者を発掘するための、TSUTAYAさんとすばる舎さんとの共同プロジェクト『日本ビジネス書新人賞』に取り組んでいます。『チラヨミ』は’22年4月から始めて、約半年で140〜150本ほど配信しています。せっかくなら、『チラヨミ』とTSUTAYA『日本ビジネス書新人賞』 を結合しようということになり、TSUTAYAの主要店で『チラヨミ』のコーナーができました。今は、さらにこれを広げていくべく、さまざまなプロジェクトを画策している最中です。
飲食業などを起業してきたこともあり、気持ち的に、物書き業だけでは生きていけないんですよ。やっぱり頭が実業家になってしまっている。だから、自分で書くだけではなく、たくさんの著者を育てていきたいと思い始めたんです。このサイクルを作れば、ひょっとしたら出版業界が盛り上がるかもしれない。書店や出版社が元気なら、著者も安心して本を書ける。今、この根っこのインフラから作っているところです」
──編集者は、新しい著者探しに苦労していますから、出版界にとっても画期的なプロジェクトになりますね。
「そうであるといいですね。このプロジェクトを始めて、“世の中にはこんなに本を書きたい人たちがいるんだ”と気づきました。『日本ビジネス書新人賞』は、ほとんどプロモーションをすることなく、企画書が300本も集まったんです。最初は“100通きたら御の字だよね”、なんてプロジェクトメンバーたちと言っていたんですが、まさかの3倍。これを大々的にやったら、1000本は超えると思います。300本から10本くらいまで絞り、10月28日に、TSUTAYAの本社でステージを組んで、最終プレゼンテーションが行われる予定になっています。その中の最優秀賞は、すばる舎からの出版と、TSUTAYAでの全面展開が決まっています。
これが今、僕たちが取り組んでいる挑戦です。仲間内では“出版革命”と呼んでいて、何らかの革命が起きたら、今度それを本にしようよと話をしています。これからどんどん衰退していくと思われる出版業界が、もしかして活況を呈(てい)していくかもしれない、そんなビジョンを反映したものです。これを成功させて、出版業界以外にも大きなインパクトを与えていきたいと思っています。
なんにせよ、これができるのは、狭く深く付き合うことができている仲間たちのおかげです。今からの時代は、広く浅くではなく、狭く深くの人間関係を作っていく人が、必ずうまくいくようになっているはずです」
(取材・文/Miki D’Angelo Yamashita)
永松茂久(ながまつ・しげひさ) ◎株式会社人財育成JAPAN代表取締役。大分県中津市生まれ。2001年、わずか3坪のたこ焼きの行商から商売を始め、’03年に開店したダイニング『陽なた家』は口コミだけで毎年4万人(うち県外1万人)を集める大繁盛店になる。自身の経験をもとに体系化した「一流の人材を集めるのではなく、今いる人間を一流にする」というコンセプトのユニークな育成法には定評があり、全国で多くの講演、セミナーを実施。’16年より拠点を東京・麻布に移し、現在は執筆だけではなく、次世代著者育成プロジェクト、出版・経営コンサルティング、出版支援オフィス、講演など数々の事業を展開する実業家である。110万部突破の『人は話し方が9割』(すばる舎)ほか、著書多数。’22年10月に新刊『君は誰と生きるか』(フォレスト出版)が刊行される。