36歳で甲状腺がんを患い、「死」の恐怖と向き合いながら、長年の夢だった歌手に挑戦し、デビューを果たした木山裕策さん。今年でデビュー15周年を迎えます。
2019年12月には、それまでの歌手と会社員の二足のわらじで活動するのをやめ、歌手活動の再スタートを切りました。
しかし、新たな道を進み始めた途端、新型コロナに見舞われ、一度は会社員に戻ろうかと考えたことも……。さまざまな転機や逆境に見舞われながらも、前に進んできた木山さんに、これまでの軌跡を振り返ってもらいました。
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「なんちゃって会社員」と呼ばれながら複業で歌手活動をしていた
──まずは、デビュー15周年おめでとうございます。歌手と会社員との二足のわらじを続けてこられましたが、今の心境はいかがですか?
「なりたかった歌手の仕事をここまでやってくることができて、満足しています。でも、2019年にサラリーマン生活にピリオドを打ち、歌手活動に専念するようになってからの当初は大変でした。
一方で、続けてきたことでいろいろな人とのつながりができ、最近は自分なりの楽しみ方を見つけてきた感じです」
──2019年に歌手活動に専念されたのは、何かきっかけがあったんですか?
「僕はデビューしたときから、“歌で子どもたちを養いたい”というのが夢でした。12年間、会社員とのダブルワークで歌手活動をしていましたが、当時の僕の中ではやっぱり会社員がメインだったんです。みんなからは『なんちゃって会社員』と呼ばれていましたけど(笑)。
課長や部長などの管理職を担っていたので、自分としては人一倍、任された役割を全うするように務めていました。
一方、歌に関しては週末しか活動をしないので、もらった仕事だけをやっている感じです。平日は仕事が忙しくて、歌に関して自分で企画をする時間もないですから。せっかくデビューできたのに、いただいた仕事だけをこなしている日々だったので、そこには悔いがありました。
とはいえ、子どもが4人もいるので、教育費がかかってしまいます。それゆえ、子ども中心の生活を組み立てていたんですが、50歳を過ぎたときに上の子3人が成人を超え、いまならいちばん下の子(当時高校生)を育てながら、歌手活動で自分の生活を組み立てられると思い、決意しました」
──どうしてもかなえたい夢だったんですね。
「一度きりの人生、自分にしかできない仕事で、お金がもらえたらいちばん幸せじゃないですか。年を重ねていくと、イヤな仕事をするのはしんどいです。これまで僕は6回転職して、いろいろな仕事をやってきました。
基本的には断らない性格なので、“これは、ちょっと”と思う仕事もたくさんやってきて、その都度、自分なりに生きがいを見つけ、頑張ってきました。でも、会社の中に、自分にしかできない仕事はなかったんです。やっぱり歌を歌っているときが、いちばん充実していました。
また、歌と同じくらい、やりたいこととして力を入れていたのが、子ども向けの講演活動です」
子どもたちへ向けた講演会活動を始めた
──子どもたちには、どんなことを、どのように話されるんですか?
「学校の体育館にスピーカーを持ち込んで、途中歌をはさみながら、子どもたちに自分の生き方や考え方を伝えています。他の人から見れば、僕は変わった生き方をしていると思うんです。
実際、歌手になったときも、“なんで、39歳で歌手になりたいと思ったんですか”とか“子どもが4人もいたら、歌手になりたいなんて考えないんじゃないか”とか、いろいろなことを言われました……。
大人たちも、僕の生き方をわかっていないように、子どもたちも“大人になる”ことのイメージが、あまりついていないように思います。
身近にいる大人だけでは、サンプルも限られますし、いつも親は仕事で忙しく、休日は疲れてぐったりしている。そんなイメージも強いと思います。それだと、子どもたちも大人になるのが楽しくないと思います。
僕のように歌を歌いたいという人がいてもいいし、サッカーをやりたいという人がいてもいい。それで、自分のこれまでの人生を、子どもたちの目を見て、自分の言葉で伝えていく。こんな“ひとりの大人がいるよ”というサンプルを子どもに伝えていくべきだと思って、活動しています」
──この活動をやろうとした、きっかけはあったんですか?
「デビューした直後に、長男の通っていた中学校の先生が“なぜ歌手になったのかや、病気になってどんな思いをしたのかを、子どもたちの前で話してくれませんか”と、学校に呼んでくれたんです。
最初は迷いました。中学時代って、何に対してもムカついている時期だから、こんなオジサンが話しても聞いてくれるか不安だったんです。でも、せっかくの機会だし、やってみるかと腹をくくって、話しに行きました。
そのときは、これまでの僕の人生を歌で構成しました。初めて買った松山千春のLPレコードの話から、病気のときに聞いた歌、人生の転機となった歌など、僕のこれまでを振り返りながら、1曲ずつ歌っていったんです。最後には、女子生徒のピアノの演奏で『home』を歌いました。
そしたら、みんな最後まで真剣に聞いてくれたんです。後日感想も書いてくれて、いまも僕の宝物として持っています。すごく熱い思いをつづってくれて、これを見て“大人が真剣に話せば、子どもたちはちゃんと聞いてくれるんだ”と、歌だけではなく、話すことにも意味があるんだと思うようになりました」
コロナで仕事がすべてキャンセルになり、収入がゼロに
──先ほど、歌手活動1本でやるようになった後、大変な時期があったとおっしゃっていました。それは、新型コロナウイルスの影響ですか?
「そうですね。僕がサラリーマン生活を辞めて、再スタートを切ったのが2019年。実は同じタイミングに、エイベックスと結んでいた専属契約も解消し、個人事務所(フリー)として始動したところだったんです。
Yahoo!ニュースに“木山裕策エイベックスから独立”という記事が2019年12月1日に流れたんですけど、その下のほうに、“中国で恐ろしい病気が……”というような見出しの記事が流れていたんです。
そのころから“日本にも来たら、もう終わりだ”と思っていたら、年明けには日本でも猛威をふるうようになってしまったんです。
独立前には、仕事が途切れないように1年先までコンサートや講演会の予定を入れていたんですけど、4月には緊急事態宣言が発令され、仕事が一切なくなりました。
僕も考えが甘かったなと思ったのは、2人目と3人目の子どもがまだ大学生だったんです。それもふたりとも私立の大学に通わせているから、教育費が年間に数百万円かかってしまいます。“歌いたい”と独立したのに、当時コロナ禍が5年続くといわれていて、今後どうしようかと真剣に悩みました。
最初は“会社員に戻ろうか”と頭をよぎり、お世話になっているキャリアエージェントの担当者に何度も相談しようと思いました。でも立ち止まって、やっぱりいましかできないことをやってみようと、新しいチャレンジを始めることにしたんです」
YouTubeの活動がファンやアーティストとの縁をつなげてくれた
──どんなことを始めたんですか?
「YouTubeです。仕事もゼロになり、やることがなくなってしまったので、自宅でできることはないかと考えたときに、“こんな暗い世の中、歌の力を信じて何かやってみよう”と思い、緊急事態宣言が出てしばらくたった4月11日に、そこから60日間『STAY“home”』というテーマで、歌を配信しました。
最初は1日1曲だけだったのですが、歌う曲が増えたり、ファンの方の質問に答えたりしていく中で、いろんなアーティストさんが“一緒にやりましょう”とコラボしてくれるようになり、少しずつ人の輪が広がっていきました。
ファンの人たちもチャットでメッセージを送ってくれて励まされました。実際、この配信をきっかけにファン同士が仲よくなり、今では一緒にコンサートにも足を運んでくださいます」
コロナ禍を皮切りに、あの話題のテレビ企画が始動
「他にも、キングレコードの担当者さんが“コロナ禍になったので、木山さん暇でしょ。私が企画書を書くので、アルバムを作りましょう”と言ってくださって。その年の6月にはアルバムが発売され、それを皮切りに、この3年半の間に6枚も僕のアルバムを出してくれました。
今年の4月には、Mr.シャチホコさんとのコラボにより、ちょっとふざけたタイトルですけど、『木山と木山〜夢のディナーショー』というデュオアルバムも発売されました」
──『千鳥の鬼レンチャン』(フジテレビ系)での木山さんと、もっと木山(Mr.シャチホコ)さんの名前をかけたバトルは面白かったです。あの番組で、木山さんも再注目されるようになったんじゃないですか。さっきも外の撮影で、小さいお子さんから声をかけられたりしていましたよね。
「ありがたいですね。これまでも、山寺宏一さんやビューティーこくぶさんなど、僕のモノマネをしてくれる人はいたんですけど、あそこまでバズったのは初めてですね。
『home』が出たのは、15年前なんです。だから、僕と同じ世代か、少し若い子育て世代の方は知ってくれているんですけど、子どもたちは知らないんです。今回シャチホコさんが僕のマネをして『home』を歌ってくれたことで、子どもたちが歌や僕の名前を知ってくれるようになって。
いまでは、どこへ行っても“きやま! きやま!”と呼んでくれます。番組では“木山”じゃない名前になってしまって、まだ取り戻せずにいます。あれはあれで、ちょっと営業妨害ではあるんですけど(笑)」
──こうやって話をお聞きすると、独立した当初、苦しい時期はありましたが、いまは本当にやりたい活動が広がってきているようですね。
「僕としても1日でも長く、歌い続けたいと思っているので、こうやって再注目されたり、新たなつながりができて、いろんなところで歌えるのは、嬉しい限りです。
独立した当初はコロナになり、“(36歳でがんを患ったころを思い)またかよ”という気持ちになりました。“頑張ってきたつもりなのに、なんでこんな目に遭うんだろう”と恨む気持ちも少し出てきたりもして。
でも、そこで諦めずに、考え方を切り替えて、“1回転んだんだから、転ばなかったらできなかったことをやろう”と思って取り組んだから、いまがあると思うんです」
36歳でがんを患い出世コースから外れることに愕然とした
「サラリーマン時代は、いまと違って“勝ち続けなければいけない”と思っていました。立場上、人に謝ることが多かったですけど、“人生は頑張れば勝ち続けられる。でも一度負けたら、そこで終わってしまう”と、ずっと思っていたんです。
そんな中、36歳でがんになって、そのときは、“もうこれで終わりだ”と思いました。
当時は、“がんになったら本流(出世コース)から外されてしまう。だから、がんのことを上司や人事に言えない”と思っていたし、そう考える人も多かったと思います。
いまは2人に1人ががんになる時代です。会社も治療しながら働き続けられる制度を整え始めましたけど、当時はそんなに環境が整っていませんでした。
“あんなに頑張っていたのに、これで出世コースから外れていくんだ”と思って。それが悔しかったので、がんになったことをきっかけに、それまでやれなかったことやろうと。それが、僕にとっては歌だったんです。
それで頑張って歌手になることができた。人生って、何が起こるかわかりません。コロナになったときも“終わった”と、本気で思いました。“全部またリセットだ”って。
でも、さっきお話ししたように、考え方を切り替えて、独立して、歌手活動一本にしぼって、前に進み始めたんだから、できるところまでとりあえずやってみて、それで無理だったら考えようと思ったら、意外といろんな人が助けてくれたんです。大変でしたけど、いま思えばすごく楽しかったですね。
こうした経験から学んだことを、いまはお子さんだけでなく、お子さんを持つ若い親御さんにも伝えています。そこでのメッセージは “諦めたらダメだということ”“負けていいので、一生懸命頑張ること”“転んでも、自分の頭で考えて立ち上がる、そんな子どもを育ててほしい”。
そのためには、大人が何度転んでも、立ち上がり続ける背中を見せる必要があると思っていて、僕は実体験をもとに、いろんな場所でその話をしています。おかげさまで、共感してくださる人も増え、全国で呼んでもらえるようになりました」
次回は、自分の夢をかなえるための考え方や行動について、お聞きします。
(取材・文/西谷忠和、編集/本間美帆)
【PROFILE】
木山裕策(きやま・ゆうさく) 1968年生まれ、大阪府出身。2007年『歌スタ!!』(日テレ系)出演をきっかけにデビュー。翌年『home』でメジャーデビューを果たし、同年の『NHK紅白歌合戦』に出演。以降、歌手活動を中心に躍進し、2019年に独立。近年では歌手活動の他、学生・管理職向けの講演活動に加え、『千鳥の鬼レンチャン』(フジテレビ系)への出演が話題になるなど、多方面で活躍している。YouTuber→@user-yb7tq1cx3n、Instagram→@kiyamayusaku