“言葉のエキスパート”でもある評論家・宮崎哲弥さんへのインタビュー第2弾! 第1弾では、中学校から続けているという「語彙ノート」をつけ始めたきっかけや、言葉というものに対する考察などを伺った。後編では、新著『教養としての上級語彙―知的人生のための500語―』(新潮選書)で取り上げられた実例を多く交えながら、今の時代における言葉の変化や誤用について思うことを話してもらった。
(インタビュー第1弾→宮崎哲弥「大人の国語力を立て直したい」と“上級語彙”を厳選、使える言葉を増やすことでもたらされる多大なる恩恵とは?)
言葉は使われた瞬間から変化している。意味の変化と誤用の境界線は?
──『教養としての上級語彙―知的人生のための500語―』には、「言葉は無限に差異化していく」と書かれていました。
言葉というものは、使われた瞬間に変化が始まっていると言っても過言ではありません。辞書はまさに、死んだ昆虫=言葉の標本です。それが意味がないといっているのではないのです。辞書は有用です。
それは大変、役に立つものなんですが、ある言葉を「自家薬籠中のもの」として使い込んでいくと、辞書に書かれてあった意味の地点から徐々に離れていくことに気づきます。その捉え難さを意識して使っていくことが重要だと思うんですね。
例えば、「鼎(かなえ)の軽重を問う」なんて言葉は、原義からだいぶ離れてきたわけです。
(鼎の軽重を問う:権力者や権威者の実力、器量を疑い、その地位から落とそうとすること)
昔は権力を奪取し体制を覆すというニュアンスが込められていました。今でもよく新聞で使われたりしますが、「金融システムの鼎の軽重が問われている」など、「権勢をほしいままにする者の価値や力量が疑われる」くらいの控えめな意味合いになりました。これは以前のように、地位を脅かしたり、それらに取って代わろうという野心を表しているわけではないので、明らかに意味が変容しています。
──言葉の変化がある一方、単純な誤用もあると思います。その境界線とは?
単なる読み違いから始まるようなものは、できるだけなくしたほうがいいと思いますが、使っているうちに変化していったものは、必ずしも誤用ではないとみています。
例えば、「独壇場(どくだんじょう)」という言葉、よく使われますが、実はこれ誤用なんですよ。本来は「独擅場(どくせんじょう)」だったんです。「擅」には「ほしいままにする」という意味があって、「ひとりほしいままにする」ということで「独擅場(どくせんじょう)」。この「擅」の手偏を誰かが土偏と読み間違え「独壇場(どくだんじょう)」だと思った。この誤読が広まってしまって、今ではもう一般化してしまいました。読み違いから始まっているからよくない例だと思っていたんだけれど、訂正するのはもう諦めた……(笑)。だから本書では取り上げていません。まあ「独り舞台」という意味で「壇」なのだと捉えれば、「独壇場(どくだんじょう)」でもいいのかなと。
──「ひもとく」という言葉も取り上げていました。「本を開いて読むこと。書物で調べて明らかにすること」の意ですが、本書では、テレビ番組などで書物と関係ない文脈において、単に「解き明かす」という意味で使われてしまっていると指摘していました。
「ひもとく」は微妙なんですよね。原義は、かつて書物は紐で閉じてあったので、その紐を解くことが即ち本を開くことだったのです。そして書物を開いて読むから物語を読む、そして事態を読むという具合に、“隠喩の隠喩”になっていった、それはしかるべき言葉の変化だと捉えられるでしょう。
(いんゆ【隠喩】あるものを、「ような」等を用いずに、別のもので喩えること。メタファー。直喩の「雪のような肌」に対し「雪の肌」と表現すること。暗喩。例:「彼女ははきだめの鶴だ」「あの人は生き字引だよ」)
(しかるべき【然る可き】そうであるのが当然。ふさわしい。適当な。「一言あって然るべきだ」)
ただ、どうして「ひもとく」というのかを知らないまま使うと、よくないと思うんですよね。例えば、音楽番組で「こちらの兄弟デュオの過去をひもといていきましょう」なんてMCにいわれたら、語源を知っていれば、「いったい何をひもとくのだろう」と思いません? せめて「過去の“物語を”ひもとく」といった使い方をしてもらいたいですね。……でも念のためにいっとくと、別にこの本は言葉の誤用、乱用を正す本ではないんです(笑)。一応、そういうことも書いてあるけれど。
「理解語彙」を増やすことが第一。宮崎さんから見て言葉の使い方がうまい人は?
──語彙には、読んだり聞いたりしたときに意味のわかる「理解語彙」と、自分で能動的に書いたり話したりできる「使用語彙」とがあるそうですが。
はい。やはり、まずは理解語彙を増やすことが重要です。その言葉を知っているか、意味がわかるかどうかで決まりますから。私は、現代人のどのくらいが70年以上前の文献を読めるか、かなり不安を抱いています。戦前の文学者や思想家の文章は、いまからみると語彙水準が大変高く、難しい言葉を平気で使っていますから、夏目漱石の小説なんて、例えば『吾輩は猫である』でも、膨大な注記なしには読めない。もしかしたら、もうすぐ平易な言葉にしたヴァージョンが出てくるかもしれない。思想家・和辻哲郎や歴史学者・津田左右吉の文章もそうでしょう。私は一応スラスラ読めるけれど、今の若い子たちには難しいかもしれません。
それどころか、果たして戦前の新聞を読めるのだろうか。例えば、日本があの無謀な戦争に突入していったプロセスを辿(たど)るためには、当時の新聞を読むのがいちばんいいのです。人々はなぜ戦争への傾斜に抵抗することもなく流されていってしまったのか。当時のメディアからその生きた歴史を知ることは、現在を問い直すことにも繋がります。ところが理解語彙が少ないと、これすら難儀になります。そういう意味でも、まずは理解語彙を増やすことがとても重要だと思います。
そして理解語彙として捉えたら、次は「ここぞ!」というときに記憶から召喚して使ってみることですね。その語を発してみて違和感はないか? 周りの反応はどうか? などを見ながら繰り返し使ううちに、やがて自分のものとなり、使用語彙として定着させることができます。
──宮崎さんから見て、言葉の使い方が上手な人は誰でしょう?
この本でも引用している辺見庸さん、そして、この本では引用していないけど向田邦子さんですね。あとは三浦瑠麗さんのエッセイ集『孤独の意味も、女であることの味わいも』(新潮社)も言葉の措き方が巧みな本でした。この本からはとくに「濃やか」「細やか」の意味の差異を取り上げました。
(こまやか【濃やか】心がこもっているさま。情が厚いさま。親密なさま)
(こまやか【細やか】細かなさま。こまごまとしたさま。細部まで行き届いているさま。綿密なさま)
三浦さんには出来不出来はありますが、あの世代では抜群に文章がうまい。自分の文体があるし、措辞も巧み。ぜひ小説を書いてほしいと思っているんだけど。
(そじ【措辞】言葉の使い方。言葉の措き方。文章や詩歌における辞句の配置の仕方。「巧妙な措辞」「措辞を練る」「この詩は措辞に優れている」)
まさに言葉の大海に漕ぎ出してしまった。大事なのは、それをどう渡るか
──本書のエピグラフには、国語辞典『大言海』の編纂者で国語学者の大槻文彦の言葉が引用されていました。
(言葉の海のただなかに櫂緒(かぢを)絶えて、いづこをはかとさだめかね、ただ、その遠く広く深きにあきれて、おのがまなびの浅きを恥ぢ責むるのみなりき/大槻文彦「ことばのうみ の おくがき」『新訂大言海』)
この一節は辺見庸さんの大好きなエッセイ(「時と言葉」『眼の探索』角川文庫所収)に出てくるんですよ。それで、暗唱できるくらいに覚えました。辺見さんは書きづまったときに暗誦するんだそうです。
この本を書いていて思ったのは、本当に言葉の大海に漕ぎ出してしまって、えらいことになってしまったと(笑)。その広大さ、深さといったら、もう本当に尽きることがない。
私は大槻文彦さんのような偉人に比べれば「燕雀(えんじゃく)」、いや「蚊虻(ぶんぼう)」のごとき存在であるにもかかわらず、やっぱり同じような思いを抱いたんです。
(燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや:ツバメやスズメのごとき小物がどうして大いなる鳥のような大人物が抱く高遠な志を知ることができようか〈いやできない〉)
(蚊虻:蚊やアブのような些細なもの)
もうひとつ、書きながら常に念頭にあったのは、三浦しをんさんの小説『舟を編む』でした。(出版社の辞書編集部を舞台とした)作中に出てくる辞書も『大渡海』という名前なんです。「言葉の海を渡る舟としての辞書」の義でしょうね。だからやっぱり言葉は海なのです。世界を包み込む大海。そこをどういう風に渡っていくのかで、人生が変わってくるでしょう。
【取材・文/篠原諄也】
【PROFILE】
宮崎哲弥(みやざき・てつや) ◎1962年、福岡県生まれ。慶應義塾大学文学部社会学科卒業。政治哲学、生命倫理、仏教論、サブカルチャー分析を主軸とした評論活動を行う。著書に『いまこそ「小松左京」を読み直す』(NHK出版)、『仏教論争』(ちくま新書)、『知的唯仏論』(新潮文庫、呉智英氏との共著)など多数。