「素顔の秀樹さんはおちゃめで天然、好奇心の塊でした(笑)」
2004年ごろから秀樹さんのバンドにギタリストとして加わり、作曲家・プロデューサーでもある宅見将典さん(43)。秀樹さんとは叔父・甥(おい)の関係で、子どものころから「まーくん」と呼ばれてかわいがられてきた。
インタビュー前編では、秀樹さん最後の新曲『終わらない夜』(10月5日発売)が発表された経緯などについて聞いたが、後編では公私にわたってさまざまな場面でふれてきた、実にチャーミングな素顔についてたっぷりと語ってもらう。
子どものおもちゃで本気でアクション!
「秀樹さんはもの心ついたときには、もう大スター。僕は『ブルースカイ ブルー』が出た1978年に生まれているんですが、親戚の叔父さんというよりも、テレビの中にいる西城秀樹という輝く存在。赤ちゃんのころから好きで何回もビデオを見ていたそうです。
3〜4歳のころ熱を出して寝込んでいたら、大きなピンクパンサーのぬいぐるみを抱いて家にお見舞いにきてくれました。もうビックリですよ」
──コンサートにも行かれましたか。
「小さいころ母に連れていってもらって、感動して泣いてしまったことがあります。歌を聴いて泣いている自分を周りの人に見られるのが、とっても恥ずかしかったのを思い出します。
まだ2〜3歳のときだと思いますが、コンサートで抱かれながら寝ちゃったこともあって。秀樹さんが小田和正さん(オフコース)の『眠れぬ夜』を歌ってたときだと思います。僕、あの曲がすごく好きで、変な言い方ですけど、今でもちょっと眠くなる。イントロの ♪ファンファンファファファ〜ってメロディーを聴くと、ふにゃ〜ってなるんですよね(笑)」
「小学校は奈良に行っていて吹奏楽部だったんですけれども、秀樹さんが奈良の会館でやったコンクールを見にきてくださって。そこで顧問の先生がひと言くださいとお願いして、僕ら部員の前で“よかったよ”とコメントをくださったり。
友達は最初 “偽物やろ”とか “本人が来るわけない”とか言ってましたけど、すごくうれしいですよ。家族にスターがいて自分は鼻高々ですし、わざわざ奈良にまで来てくれたりというのは。トランペットもプレゼントしてくれましたし」
──大好きな叔父さんだったんですね!
「だから大阪に秀樹さんが来たら、ずっと引っ付きまわっていました。あのテレビ、あれどうだったの? とか。本当に家族の中に光っている人が1人いて、たまに来たらもう大騒ぎ。
僕がバンドをやりだしてからは、その曲を “聴いて聴いて”って、ずっと聴いてもらって。秀樹さんはそのときの僕の身の丈にあったアドバイスと賞賛をくださる。すごく褒めてくれました。
厳しい言い方すると、高校生が作る曲なんて本当は大したことないんですよ。でも、いいところをピックアップしてくれて伸ばしてくれる。だから、本当に優しくて楽しくて輝いている師匠って感じでした」
──西城秀樹は芸名じゃないですか(本名は木本龍雄)。ふだんは何と呼んでいましたか?
「子どものころは “ヒデキ”って呼んでいましたよ。家族は“”たっちゃん”と呼ぶ。僕はヒデキっていう存在だと思っていました。“ヒデキ、ヒデキ、これ見てよ!”みたいな。
で、秀樹さんも子どものおもちゃとか、僕の持っているやつで本気で遊ぶんですよ(笑)」
──例えば何でしょう?
「むっちゃ覚えているやつがあります。腕のところに付けてパンチしたらパシューン! って音がしたり、3回まわしたらウィーンウィーンって別の音が出たり。『聖闘士星矢』のおもちゃで、聖衣(クロス)みたいなやつです(バンダイの『ペガサス流星拳』)。
それをめちゃくちゃ気に入って、何度も何度も(笑)。たしか持って帰られたと思います」
──本当ですか(笑)。
「だって犬も連れて帰ろうとしましたから。“かわいいなぁ〜”“持って帰っちゃダメ?”と言われて大反対しておきましたけど(笑)。
これは僕が大きくなってからですけど、靴は履いて帰られたことあります。あとで奥さんに電話して、こういうモスグリーンのブーツありますか? って、送り返してもらいました(笑)」
「とにかく好奇心いっぱいで、何でも面白がるんです。ハサミとか缶切りとか10個くらいが入った万能ナイフ(アーミーナイフ)とか。
あとテプラにもすごい興味を示しました。僕がテプラにハマってて、“何これ?”とか言うから《秀樹》って打ってウィーンと(テープを)出して見せたら “すげぇな!” って。そういう楽しいおもちゃみたいのにすごく反応するんです」
秀樹さんの部屋から聞こえる……
「ご自宅にも何度も泊まりにいかせてもらっていました。僕は20歳まで大阪に住んでいたんですけど、X JAPANが大好きで、東京ドームでコンサートがあって秀樹さんが大丈夫なときは、必ずお世話になりました。年末やお正月が多かったですね。
1997年の大みそか、秀樹さんはYOSHIKIさん作曲の『moment』という楽曲で紅白歌合戦に出られたんですけど、ちょうどX JAPAN がいったん解散する日で、僕は東京ドームのコンサートに行ったんですね」
──たしか東京ドームのあとの紅白がX JAPANの本当のラストステージでしたよね。しかも『moment』ではYOSHIKIさんが秀樹さんのバックでピアノを弾いた。
「それです。そのあと一緒に秀樹さんちに泊まったら、秀樹さんの部屋から紅白のビデオを見ている音が聞こえるんですよ。
ぶっちゃけ、何回見るんやろと思いました。50回くらい見てました(笑)」
──そんなに!?
「しかも秀樹さんの前がドリカムさんだったんですよ。巻き戻してパッと止めて司会の中居正広さんが “DREAMS COME TRUEのみなさんでした。ありがとうございました。次は西城秀樹さんです”ってところになるんです。何回見るんやろ、と(笑)。大音量で聞こえてくるんです(笑)」
「友達も一緒に4人ぐらいで押しかけたこともありました。僕は先に寝ていたんですけど、友達が夜リビングのソファに寝そべっていたら、ガチャッて秀樹さんがドアを開けて “これ、誰?” “あ、まーくんのお友達です”って(笑)。
でも、友達みんなにお年玉をくれて、優しかったですよ。そのころ、まだ高校生だったので夜遊びに行くとかはなかったですけど、本当に何度も行かせてもらいました」
──取材でおうかがいしましたが、おしゃれなお宅でしたよね。半地下の階に自然光が入るように地面を掘り下げてあって、門を入ったら橋を渡っていく。
「そうでしたよね。玄関までね。広いお宅なのでアスレチックみたいで楽しくて、かくれんぼをしたり。上の階には電子ドラムとピアノが置いてある歌の練習部屋があって、そこでもよく遊ばせてもらいました。
あとは大みそかパーティーを100人くらいでやってたこともありました。子どもからしたら大みそか、雰囲気のいい水槽のいっぱいある空間に、大人がいっぱい集まっていてすごく不思議で。住宅街に車が20〜30台も停まっていて、ちょっと異様でしたけどね(笑)」
──めったにできない経験ばかり。素敵な環境で育ちましたね。
「本当にありがたいですよね。秀樹さんが大阪にいらしたとき、僕のバンドの演奏で『Through the night』(1984年のアルバム『GENTLE・A MAN』収録/角松敏生作詞・作曲)を歌ってもらったことがあります。
秀樹さんが来てくれるっていうんで友達と一生懸命練習して、わざわざ練習スタジオに来てもらって。やっぱりすごい迫力でした。大阪の家のどこかにビデオが残ってると思います」
──優しい叔父さんですね!
「ムチャな子どもの願いをいっぱいかなえてくれました。何を頼んでも “いいよー”って。ギターとか音楽機材とかもいっぱい買ってくださって」
──秀樹さん自身も10代のころはドラムをやっていました。
「はい。上手いですよ。ちょっとジャズっぽいんですけど、独特のグルーブ感があります。加藤茶さんとドラム対決とかYouTubeにもいくつか動画があがっています。そういう意味では、芸能人で楽器ができる走りじゃないでしょうか。
秀樹さんは子どものときに広島にいて、バンドのドラマーでスタートしてます。で、評判になってスカウトされて “歌えないの?”と言われたそうです」
人生でいちばん言った言葉は!?
──食べ物はどんなものがお好きだったんでしょうか。
「広島焼き(お好み焼き)とか、カレーとか。夜もよくご飯に連れていってもらって、だいたい秀樹さんの食べたいものはわかっているから僕が注文するんですよ。
“揚げ出し豆腐”って言ったら秀樹さんが “そう!”。“厚焼き卵”って言ったら “そう、それなんだよ” “わかっているな” みたいな(笑)。きんぴらとか素朴な和食が大好き。もちろん僕も大好きで食べ物の好みもすごく似ていました」
「ただ、お酒だけはとてもあんなふうには飲めません。身体も大きいですし、やっぱり飲む量は尋常じゃないです。特に40代のころなんて、ロックで一気飲みしていたそうです。それだけ神経が張り詰めていたんでしょうね。
あの地位でずっとキープしてやっていく、精神的なストレスってすごかったと思うんですよ。いろんな人がいろいろなことを言うわけじゃないですか。そのなかで、やっぱり夜は忘れたかったのかなぁ、と。じゃないと、そんな飲み方はしないでしょう。ある種、心のお薬だった」
──どこへ行っても「西城秀樹だ」ってなりますから……。
「やっぱり優しいし、人を傷つけない。後輩にも優しいし、何か言われても “ん……”って1回飲み込む人なんですよ。
おもしろかったのは1回、サンフランシスコのライブのために、大使館にビザを取りに行ったんですね。そこでインタビュー(面談)があるんですけれども、どうしても対応がぶっきらぼうなんですよ。しかも、いつもは一緒にいる片方さん(マネージャー)が歌う人じゃないからって、中に入れなかったんですよ」
「それで秀樹さんと僕と何人かで入ったら、そこの外国人の担当の人が秀樹さんにとっても失礼な態度で。まだ来んな、あっち行ってろ、みたいに思いっきり横柄なんですね。僕も “国のこういう機関やから、しょうがないですね” なんてぼやいてたんですけど、たぶん秀樹さん、ずっと腹が立ってたんですよ……。
外に出て片方さんの顔を見るなり “片方、あいつは何なんだ!?”って言うんです(笑)。片方さん、見てないんですよ(笑)。“片方、あいつをどうにかしろ” みたいに言うんですけど、片ちゃん、それ、知らんから、みたいな(笑)」
──なんだか目に浮かびます(笑)。
「だから、本当に片方さんを頼りにしていたんですよ。秀樹さんにとっては、お酒と片方さんがないと “西城秀樹”を保てなかったなと思います」
(マネージャー・片方秀幸さんインタビュー記事はこちら→西城秀樹さんと35年、間近に接した愛すべき素顔「飲み屋で隣り合った人と──」)
「もうひとつ、これは僕がうれしかったんですけど、エレベーターで部屋に上がるときに秀樹さんと片方さんがちょっと話してたんですよね。そのときに僕が何か言ったら、秀樹さんが “俺と片方は一心同体なんだ” と言ったんですよ。
これって、俺が片ちゃんやったら嬉しいやろうなぁって。それぐらい秀樹さんにとって、いてもらわないと困る人。ぶっちゃけ “片ちゃん、どこ?”って人生でいちばん言ったと思います。ちょっとでも見えなくなると不安みたいで」
「秀樹さんがよく言う言葉で僕のトップ3があるんですけど、まず3位が “コーヒーちょうだい”。2位が “今、何時?”。
ちゃんと時計しているんですよ(笑)。しかも高級時計しているのに、とにかく“今、何時?” “秀樹さん、5分前に時間聞いてましたよ” みたいな(笑)。で、1位が “片ちゃん、どこ?” です」
寂しくて戻ってくる
──今年は秀樹さんのデビュー50周年。久しぶりにライブもありました。コンサートで思い出されるのは、どんなことでしょう?
「やっぱり秀樹さんのコンサートの演出家って秀樹さんなんですよ」
──実はセルフプロデュースに近い?
「そうです。細かい音符とかバンドの音のことは別として、全体の構成とか演出をすごく意識されていて、秀樹さんがほとんどプロダクションを作っているんです。いちミュージシャンが思いつかないような、おっきな演出なんですよ。
簡単に言うと、全員で止まるとか。全員でジァンジァンジャンとやるとか、そういう大きなものが僕らミュージシャンは灯台もと暗しで。目の前のディテールを詰めることが多いんですけど、すごく俯瞰(ふかん)で見ていらっしゃる」
「それと、やはりオープニングのへのこだわりがとっても強い。オープニングだけ10回ぐらい繰り返していました。オープニングさえ決まれば安心するみたいで。あとはさんざん歌ってきている曲ばかりなので、“じゃあ、よろしくね”って楽屋に行っちゃんですよ。
で、僕らはまだやってるじゃないですか。楽屋行って寂しくて、ひまで、また戻ってくるんですよ(笑)。行ったり来たりしていました(笑)」
──かわいい人ですね。
「本当におちゃめです。まだまだ僕が知らない楽しいエピソードもいっぱいあると思います。関係者の人たちはみんな言うんですよね。秀樹さんがどれだけおもしろかったかって。
だから僕も伝えたいんです。秀樹さんがどれだけチャーミングで魅力的な人だったか。
秀樹さんの話をしているとすごい幸せだし、その時間が大好きなんですよ。泣きそうになったりもするんですけど、こうして話せる機会ってなかなかなかったので……。本当に聞きたいと思ってくださっている方々にお伝えできるじゃないですか。それが本当にうれしいんです」
(取材・文/川合文哉)
西城秀樹 終わらない夜
2022年10月5日全国発売
CD+DVD(税込2,000円)
《収録内容》
CD 1. 終わらない夜 2. 終わらない夜(Instrumental)
DVD 1. 終わらない夜 記録用ワンカメライブ映像(2006年10月17日大阪厚生年金会館)
2. 終わらない夜 レコーディングドキュメンタリー in New York
3. 終わらない夜(トレーラー)