5000人を超える原告たちの思いを背負って最高裁に立ったのは、町の美容室のおばちゃんだった……。福島第一原発事故の被害者たちが国を訴えた「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ! 福島原発訴訟(生業訴訟)」の最高裁弁論が4月25日にあった。法廷で意見を述べる原告はたった1人。その大役を任されたのは、深谷敬子さん(77)だった。原発事故で避難するまで数十年、福島の浜通り(太平洋沿い)で美容院を開いてきた。「水商売用のアップが得意だったの」と言う町の美容師さんは、司法の最高機関で何を語ったのか?
「最高裁はお城みたいでビックリ。緊張はしなかった」
《私、深谷敬子は、福島県郡山市に生まれ、美容師の仕事に就きました。1968年に結婚したのちは、夫の故郷である富岡町に自宅を新築し……》
4月25日午後、最高裁第二小法廷に、深谷敬子さんの声が響き渡った。
深谷さんは、原発事故を起こした国の責任を争っている「生業訴訟」の原告の1人だ。13年に始まったこの裁判の原告の数は、遅れて提訴した第2陣も含めると5000人を超える。福島地裁、仙台高裁では住民側が勝訴してきた。最高裁でも国の法的責任が認められるかが、世の中の注目を集めている。
最高裁の弁論はこの日のみ。意見陳述ができる原告は1人だけ。その大役を任されたのが、深谷さんだった。どんな人なのだろう? 現在の住まいである福島県郡山市の自宅を訪ねた。
──傍聴していた原告の人たちが「深谷さんの陳述がすばらしかった」と言っていましたよ。
「私は感じたこと、見たままのことをそのまま話すだけなの。原発事故の避難者だって裁判官だって、肩書をとればみんな同じ人間でしょう。家に帰れば普通の父ちゃん母ちゃんですよ。いろいろ聞けば、楽しくなったり悲しくなったりするんですよね」(深谷さん/以下同)
──最高裁で話すのは緊張したでしょうね?
「ねー。最高裁なんて、普通に生きてたら自分の人生で用事ないでしょう。行ってみたらコンクリートでできた要塞。お城みたいな感じでビックリしました。立派なところでしたよ。でも、緊張はしなかった。私は図々しいから(笑)。私の前に話したのが向こう側(国)の弁護士の人だったでしょ。その人の話が難しくて、難しくて。私、少しトロンとしちゃったくらいなんですけど、となりの弁護士さんが“深谷さんの番ですよ”って小声で教えてくれて。それで目をピカっとさせて、用意していた文章を読みました」
──あははは。
「人間、生身の身体だからそういうこともあるんですよ」
「生きてきた証そのものを、原発事故が奪ってしまった」
深谷さんは5人きょうだいの長女として生まれた。家は貧しく、中学を出てすぐ働きに出た。看護師になりたかったが、教師から「身体が弱いからあなたが病気になってしまう。同じ白衣だから美容師になりなさい」と言われ、上京して東京の下町の美容院で修業した。
「私は水商売で働く女性の髪を『アップ』にするのが得意だったの」と深谷さん。東京で腕を磨いていたころ、福島県富岡町出身の男性と出会い結婚。いったんは富岡に戻って暮らしたが、「もう一度、美容師がしたい」と思い、単身上京して東京駅前の美容院で働いた。富岡には月1回帰った。東京で4年ほど働いてから福島に戻り、浪江町に自分の店を開店。60歳の手前で店を息子に譲り、今度は富岡町の自宅の敷地内に新しい店を作った。
そのころの充実した日々を、深谷さんは法廷で語った。
《地域のお客さんを迎えておしゃべりをしながら働いてきました。働くこと、そしてお客さんや友人を自宅に招いて、自家菜園でとれた野菜を使った料理をみんなで食べて、楽しくおしゃべりすることが、私の生きがいでした。身体が動く限りはここで美容師として働き、この生活をこれからもずっと続けていけると思っていました》
──美容師の仕事が生きがいだったのですね。
「そう。働いた、働いた。もう働くのはいいやと思って、59歳のとき息子に店を譲って、車を買っていろんなところに行って1か月遊んだの。でも、1か月ですぐつまらなくなっちゃった。それでもう一度、店を作りました。お金を稼ぐというよりも、地域のサロンみたいに使えたらと。みんなで悩みごとを話し合ったり、そういうことがしたかったんです」
しかし、原発事故が深谷さんのそんな日常を奪った。
《自宅は、事故を起こした福島第一原発から直線距離でおよそ7キロほどのところにあります。地震のときは仕事中で、すぐに戻れると思い、仕事着のまま、ほとんど何も持たずに逃げました。そのときは避難生活が11年以上になるとは全く考えていませんでした。
その後、体育館や親族の家、旅館や借り上げ住宅、復興公営住宅など、10か所以上を転々としましたが、どこに行っても気の休まるときはありませんでした。今は郡山市に息子が建てた家に同居していますが、それでも私と夫は富岡町に立てた家で、誰にも気兼ねすることなく、のびのびと暮らしていた日々はもう戻ってきません。寂しく、やりきれない思いが胸を離れることはありません。
自宅もお店も、美容師としての生きがいも、自家菜園も、知人友人とのつながりも、私の生きてきた証そのものを、原発事故が奪ってしまったのです。死ぬまでここで暮らそうと思っていたのに、本当に残念です。一時帰宅のときに、変わり果てた自宅や店を見るたびに、悔しさがこみ上げ、亡くなった夫の仏壇の前で涙を流していました》
勝ち負けはどうあれ「原発事故のことを忘れてもらっては困る」
──その悔しさがあったから、生業訴訟の原告に加わったんですか?
「最初は裁判なんてよくわからなかったんです。避難先でお友だちになった双葉町(※福島第一原発5・6号機が建つ)のご夫婦から、“なりわいっていうの、ちょっと行ってみない?”と言われてね。一緒に裁判の説明会に行ったんです。結局、このご夫婦は原告になりませんでした。私も何が何だかわからなかったんだけど、そうしたら偶然そこで、昔うちの店で働いていた人に再会したんですよ。その人が“深谷さんも入りなよ”って言うから、“ここに来るとあんたに会えるかもしれないね”という話になって、それで原告団に入ったんですよ」
──それがきっかけで、最高裁で意見陳述するまでになったんですね。
「そうなんです。何か不思議な縁があったんでしょうね。知っている人と会えるなら入ろうかなあ、くらいの気持ちだったんですよ。そのあとで弁護団の人たちの話をよく聞くようになって、この裁判の意味がやっとわかってきたんですね」
最高裁で深谷さんは、自らの半生をつづったあと、こう語った。
《私がこの裁判に加わったのは、賠償のことだけではありません。本当は、原発事故が奪っていった私の人生そのものを返してもらいたいのです。それは無理だというなら、事故がどうして起きたのか、誰の責任なのかをはっきりさせてもらいたいから、裁判に加わったのです。そうでなければ、またいつか同じような原発事故が起こり、私たちと同じような思いをする被害者が生まれてしまうと思います》
──「人生そのものを返してもらいたい」。その言葉が印象的でした。
「ありがとうございます。苦労して、苦労して、波乱の人生だったと思うんです。浪江に店を建てたときは4000万円も借金しましたよ。一生懸命に働いて、暮らしてきました。そうやって生きてきたんです」
──それを最高裁で伝えたかったのですね。
「私だけの気持ちじゃないんですよね。最高裁では、原告のみんなの気持ちを伝えなきゃいけないんです。だから裁判の前は必死になって、一週間くらい何度も読み返して練習しましたよ。読み間違えはいいんですけど、みんなの思いが伝わるようにね。力を入れて読むところとか、静かに読むところとか、そういうのってあるでしょ。裁判官のみなさんに、わかってもらいたくて」
──うまく伝えられました?
「声は大きかったみたい(笑)。次に話す弁護士さんが、“深谷さんが大きな声で話してくれたおかげで、私もしっかり陳述できました”とほめてくれました。いい経験をさせてもらいました」
「生業訴訟」はその名のとおり、福島県内外でそれぞれの生業をもち、平穏な生活を送ってきた市井の人々による裁判だ。原告団長の中島孝さんは、福島県相馬市でスーパーを営む。農家、漁師、車の修理工場経営、浄水器販売……。原告たちはみんな、地域に根を張って暮らしてきた。原発事故によって自分たちの人生や仕事、故郷が奪われ、傷つけられたことに激しく怒っている。
原発事故を起こした「国の法的責任」をめぐる最高裁判決は6月1
(取材・文/ウネリウネラ・牧内昇平)