「あるルール」を作った「アカデミー」とは

 そのルールを作ったのが「アカデミー」だ。簡単にいうと「王立の美大」。なかでも、西洋美術を取り扱ううえでの「アカデミー」というと、1648年にできた、フランスの「王立絵画彫刻アカデミー」を指す。

 学校ができる前のフランスには、「ギルド」という芸術家組合があって、芸術家たちはそこに所属して仕事をもらうのが主な方法だった。

 ただ、ギルドは「新参者は入れてやらねぇから」という、なんか初期の「2ちゃんねる」みたいに閉鎖的だった。そのため志願者は「し、師匠! 絵の描き方を教えてください!」と志願して、下積みして、何年か後にやっと仕事が入って……みたいな世界。「芸術家」として一人前になるためのルートが、めっちゃ狭かったのである。

 そこで、フランスにいた新進気鋭のアーティストは、みんなイタリアに行った。イタリアには、すでに”緩めの芸術家組合”がいくつかあったのだ。一方、フランスのギルドは閉鎖的。古参が「で、お前は芸歴何年なん?(威圧)」と幅をきかせてくるので「何だよ、ヤンキー中学かよ……もっと自由に学ばせてくれよ」と、反発が起こるわけだ。

 それを知ったフランス王家のお抱え画家、シャルル・ル・ブラン「やっべぇ、わが国の芸術は死ぬぞコレ」と危機感を持つ。そこで、太陽王・ルイ14世率いる王家に「ちょ、うちも美大を作って門戸を広げましょうや」と持ちかけて、前述の「王立絵画彫刻アカデミー」が発足した。ちなみにル・ブランは、あのヴェルサイユ宮殿の室内装飾なんかを手がけた、当時の大スターである。

 すると、ルイ14世の右腕で国務大臣のコルベールは「国の仕事はアカデミーに在籍する芸術家に全部任せることにする」と、極端すぎる宣言をする。これでギルドは一気に職を失うとともに、「王立絵画彫刻アカデミーに入ること」が「画家として食っていくこと」の必須条件となるのだ。

 これ、芸人でいうと吉本興業の吉本総合芸能学院(通称・NSC)のイメージに近い。誰かに弟子入りして、カバン持ちをしながら人脈を広げて……と苦労をしなくても、優秀な人は在学中でも運営者から仕事が与えられるシステムが確立したのである。

 そして1667年には、世界で初めての公募展「サロン・ド・パリ」(ちなみに今も年1回開かれている)を開く。この通称「サロン」というのは、とにかく「王家が主宰」ってのが肝。もう影響力が、めっちゃデカい。そのうえで、当時の王家は絵画に対してはっきりと以下のような順位をつけた。

1.歴史画
2.肖像画
3.風俗画
4.風景画
5.静物画

 5段階に分かれているものの、実際は頂点の歴史画が非常に大事で、肖像画以下はまったく評価されなかった。風景画なんて「え、嘘でしょ。それで完成? いやいや、まだ途中っしょ?(笑)今からその上に人、描くんでしょ?(笑)」と、バカにされまくっていた時代です。

 この「5段階のヒエラルキー」がいわゆる画壇のルールだ。つまり風俗画や風景画は全然、評価されないのである。