「小学校の6年間、この子は場面緘黙症(ばめんかんもくしょう)でした」
母がそう言ったとき、自分の子ども時代にひとつの名前がついた気がした。
バメンカンモクショウ。
6年間、私は学校で同年代の子たちと話すことができなかった。あの経験には名前があったのか。
言語能力には問題がないのに、家にいるときは会話ができるのに、学校でだけは、どうしても話せなかった。“自分は周りとは違う変な子どもなんだ”と思い込んでいた。
だが、違った。私は「場面緘黙症の子ども」だったのだ。
子ども時代は、社会生活において難なく話せるようになったいまの私と地続きになっている。
学校へ行くと、話したくても話せない
休み時間になると、教室はいっせいに活気づく。校庭で遊ぼうとする足音と、おしゃべりする高い声が混じり合う。
「楽しそうやなあ」
そう思いながら、私は、ランドセルから本を出した。
「ひとりでいるのが好き」という雰囲気を出さないといけない。
本心は、目の前にあるものすべてから逃れたかった。私以外の「ちゃんと話せる」みんながとても幸せそうで、違う人生を生きているように見えた。
読書を始める。本のなかには、無限の可能性が広がっているように思えた。誰かが目の前にいるように感じて顔を上げると、クラスの男子と目の位置があった。
「あーいーうーえーお」
本の世界から現実の世界に引き戻される。
「言えるやろ。あーいーうーえーお」
私は「あ」の形を作りかけるが、声を出せない。
「もう、やめえや」
女子が近くで笑いながら言った。
私は泣き出した。泣いた私の周囲が、さっきよりも、もっとざわめく。
「ほんまは話せるくせに。泣いたら先生から味方してもらえるって思ってるやろ」
目の前にいた男子が、吐き捨てるように言った。
ドロドロとしたものが、胸の中にあふれてくる。
このドロドロは、いま初めて生まれたものじゃない。小学校に入学してからずっと、私の胸にあるものだ。
家のなかではうるさいくらいよく話すのに、学校だと、とたんに話せなくなる。言語能力は正常だそうだ。
ほかの子と同じようにちゃんと話したいと思えば思うほど、私は口を開くことができなくなった。どうしてそうなったのかはわからない。ただ、自分は同年代の子たちのなかで、異質な存在なんだと感じていた。