転校先でも進学先でも悩まされ続けた
それが「場面緘黙症」という症状で、苦しんでいたのは私だけじゃないと知ったのは、大人になってからである。
勤務していた会社での日々がつらくて、うつ状態になった私は、母と一緒にメンタルクリニックを受診した。
「いままで、何か精神疾患を患ったことは?」
医者から聞かれたとき、母は私の前で初めて「小学校の6年間、この子は場面緘黙症でした」と言った。
私の記憶にはないが、児童精神科で診断も受けていたらしい。
病院を出て、なぜいままで教えてくれなかったのかと母に聞いた。「傷つくと思ったから」という言葉が返ってきた。
確かに子どものころなら、「自分は心の病気なんだ」とショックを受けていたかもしれない。
だが15年後、大嫌いだったあのころの自分にひとつの名前がついて、大人の私は安心していた。自分だけが苦しんでいるわけではないと、わかったから。
そのあと、いろいろと調べていくうちに、中学生時代に不登校になったことも、小学生のころの場面緘黙症が原因だったのでは? と思うようになってきた。
小学6年生の2学期、父親が一戸建ての家を買った。それに伴い転校した私は、「今度こそクラスの子といっぱい話して、楽しい学校生活を送ろう」と心に決めた。転校先の小学校では、話せない私を誰も知らない。
転校した日の休み時間、女子たちが私を取り囲んで、ひとりひとり自己紹介をしてくれた。同じ大阪とはいえ、転校前の学校より田舎だったせいか、みんな素朴に見えた。
一生懸命、話した。
周りの反応がわからないほど、私は「話すこと」に必死になった。
話し終わったあと、周囲を見わたすと、みんなが奇妙なものを見たときのような表情をしていた。
私は、話しすぎてしまったことに気づいた。自分が言ったことに対しての、誰かの言葉をさえぎったような気もする。
大人になってから考えると、あの瞬間の私は、ほかの子どもたちが日常生活で無意識のうちに訓練を受けているはずの「人の話を聞くこと」「自分が話し終えるタイミングを見極めることができなかったのだろう。
「あの子、空気読めないんやな」と言われるようになり、転校先でまたひとりぼっちになってしまった。
半年後、進学した中高一貫の女子校でも、同じようなことを繰り返した。
クラスメイトとの会話に慣れていないせいで、話した相手の内面にどこまで踏み込んでいいのか、わからない。友達とたくさん話して、楽しい中学校生活を送りたかった。
しかし、小学校のころと同様に孤立したとき、私はかつてない劣等感に苛(さいな)まれた。「もうダメだ」と思った。
「“うまく会話ができない変な人”というイメージは一生、私につきまとうんだ」
そう思い込んだ私は、どんなに親に叱られても、先生に諭(さと)されても、中学1年生から2年生の終わりまでの約2年間、登校しなかった。
場面緘黙症をを克服した時期と、克服できた理由はいまだにわからない。不自然とはいえ学校で話せるようになっていたから、中学生の私はもう場面緘黙症を克服した、と当時の主治医も母も思っていたそうだ。
しかし、場面緘黙症との共存から解き放たれたばかりの私に必要だったのは、友達とスムーズに会話しようと頑張ることだったのだろうか。焦らずに、学校という社会に溶け込む方法を、理解してくれる大人と一緒に探すべきだったのではないだろうか。
小中学生の居場所は、学校と家庭だけであることがほとんどだ。学校で人間関係を培えなかった私は、「人生に失敗した」と思い込んでしまった。
その原因は紛れもなく、場面緘黙症を患っていた小学生時代にあった。