妹とのツーショット。幼いころから、笑顔の裏に心のモヤモヤを抱えていた

誰かを“異質な存在だ”と排除する前に

 場面緘黙症は、ほとんどの人が数年で治ると言われている。私もそうだった。

 だが、治ったあとの学校生活も、思うようにうまくいかなかった。いじめられる日々が続いた。

 疎外感を抱えて自分を取り戻せないまま、もしくは、場面緘黙症を患ったまま成人する人もいるという。

「大人になる前に克服できたりおちゃんは幸運だったね」と言われることもあるが、それで終わらせていいのだろうか、と最近思う。

 場面緘黙症だった過去は、いまの自分を形づくる要素のひとつになっているからだ。

 私には、特技がある。

 自分がなるべく傷つかないための防護柵をはることだ。

「この人、今、〇〇が嫌だと思っているな」といち早く気づくことができるので、知人・友人が自分と離れたいと思っているとき、私はなるべく早く身を引く。

 7歳から12歳まで、場面緘黙症のせいで、ずっと自分は異質な存在だと感じ続けてきた。クラスメイトと仲よくなりたいのに、傷つくのが怖くて、ひとりでいるのが好きなふりをした。

 だから、誰かと離れたあとに「ひとりでいても平気」というふりをするのが上手になった。

 電車に乗っていて、特定の人に違和感を抱(いだ)くことはないだろうか。

 奇声をあげている人を見て、“気持ち悪い”と思ってしまうことはないだろうか。

 目をそらす前に、少しだけ想像してみてほしい。

 その人たちも、もしかしたら、小学校のころの私のように、自分ではどうすることもできない苦しみに立ち向かっている最中なのかもしれない。

 私たちには見えていない世界と、戦っているのかもしれない。

 そしてまた、目立たなくても、「ひとりでいても平気」という演技をしながら、自分の傷を隠す人が、今もいるはずだ。

 大人も子どもも関係ない。

 場面緘黙症だけではなく、異質な存在を「自分たちと違うから」とすぐに排除せずに、一度、想像力を働かせてみると、彼らと近い視点で物事が見られるようになるのではないかと感じている。

(文/若林理央)