お子さんや旦那さんについて話す平野さんの表情はとても穏やか 撮影/齋藤周造

60歳を過ぎ、新たなご縁に恵まれた

 そのころ、友人のパーティで、のちに再婚した彼・イーゴさんと出会った。彼は彼女が店をオープンさせるにあたって荷物を運んでくれたり、さまざまな手伝いをしてくれた。

「店は続かなかったけど、彼とのつきあいは深まった。“いいことは同時には手に入らない”、“人にならった生き方はすまい”ということでしょうか(笑)」

 あるとき、平野さんが体調を崩して少し吐いたことがあった。彼はそれをとっさに両手で受けてくれた。なかなかできることではない。それに否定的なことを言わない、否定的な考え方をしないのも彼のいいところ。

「物にこだわりがないんです。900円のスニーカーでもかまわない。自然を愛し、好きな人とその日1日を大事に楽しく暮らしていきたい。そんな人なんです。口癖は『シェア』。なんでも分けあって、何かしたら『We did it』。目線がWeなんですよね。人生はシナリオ通りにはいかないけれど、一緒にいてお互いに少しでもいい人間になれたらいいな、と私は思っています」

互いにとって大切な存在である、夫のイーゴさんと 撮影/宮濱祐美子

どんなことも「やってみはったら!」

 平野さんの母は、優しい人だったが、姑に仕え夫に仕えて、自分の人生を生きていないように見えたという。心のどこかで“人に添うだけの人生は嫌だ”と思っていたのかもしれない。人生半ばで彼女が日本を飛び出したのも、ずっとためてきたものがあったからだろう。そして、それを後押ししてくれたのは、ことあるごとにビシッと厳しい言葉をぶつけてくれたり、無条件に応援してくれたりした娘の存在だ。

「娘と息子はいつも反応が違うんですよ、私が留学すると決めたとき、堅実でクールな息子は、“どこにそんなお金があるの。ムダなことはやめなさい”と。でも、“お金の使い方は人それぞれだし、私が2年でその費用を使い切っても幸せなら、それでいいでしょ”とまじめに言ったら、“それだけの決心があるなら、しょうがないね”と言ってくれました。

 一方、娘は“行ってらっしゃい。もし卒業できたら快挙じゃない! もしできたら、だけどね”って(笑)。当時、2人で一度だけ一緒にニューヨークに来てくれたんですよ。とても励まされました」

 再婚に際しても、娘は「今を楽しんでね」と背中を押してくれた。

「私が今でもはっきり覚えているのは、子どもたちが伝え歩きを覚えて、私のほうに向かって歩いてきた最初の一歩なんです。あのときの感動だけは忘れない。この子たちの人生の一歩が、私にはすごくうれしかった」

 母として命の重さを知っているからこそ彼女は、子どもたちの手が離れたとき、今度は自分を育てていこうと決意したのかもしれない。「せっかく授かった人生なのだから、躊躇(ちゅうちょ)しているのはもったいない。やりたいことをやりたいようにやってもいいのではないか」と。

 平野さんが半生を振り返って著した『「松之助」オーナー・平野顕子のやってみはったら! 60歳からのサードライフ』(主婦と生活社刊)には、どんなことでもやってみなければわからない、と、縁と丁寧に向かい合ってさらに道を切り開いてきた彼女の人生哲学がちりばめられている。とはいえ、堅苦しいものではなく、めんどうなものでもない。誰でも自分の心に耳を澄ませば、きっと心の奥から「やってみはったら!」という声が聞こえてくるだろう。結果はともあれ、「やってみる」ことがいちばん重要なのだ。

 小柄な平野さんだが、今も日本にいるときは教室を開催、自ら熱心に教えている。47歳から全速力で走り続け、70歳を越えた今、ようやくゆるやかに歩く楽しさもわかったという。

「先々の夢を追いかけて走ってきたけど、今は毎日、今日をどうやって豊かに生きようか考えているの」

 そう言って彼女はキュートな笑顔を見せた。

(取材・文/亀山早苗)

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