手塚イズムを継承し進化させる“レジェンド”たち
こんな感じで、1950年代は、漫画が子どもにとって欠かせない読み物になり始めた時代だったんですね。そんな時代に、漫画好きなら知らない人はいない伝説的アパート「トキワ荘」が誕生します。
手塚治虫をはじめ、赤塚不二夫、石森章太郎、寺田ヒロオ、藤子不二雄両氏、水野英子など漫画界のレジェンドたちが住みました。もう完全に”お化け屋敷”ですよね。
トキワ荘の漫画家たちは、入居時はほぼ新人。ただ、退去後にレジェンド的作品を出して成功しています。
なぜ、このアパートからレジェンドが生まれたのか。その理由のひとつが「入居基準」にあります。トキワ荘にはローン的な意味でなく、作品的な「入居基準」があり、兄貴ぶんのような存在である寺田ヒロオと藤子不二雄両氏が入居前に作品を審査していたそう。「すばらしい作品でも、画風が合わなかったら断っていた」といいますから、必然的に相当な精鋭が集まったんですね。こんなの、六本木ヒルズより住むの難しいですよ。
また、ビジネス的な観点でいうと、トキワ荘には漫画家ごとの編集者が出入りするわけで、新たな仕事をもらいやすい土壌もあったのでしょう。自然と発表の場が増えたのは大きかったと思います。
そして、何より「同志」がいることは強かった。藤子不二雄(A)は「ライバルというより『兄弟』だった。誰かがいい作品を描けばこっちもうれしいし、頑張ろうって」と当時を振り返っています。
私は「この環境こそ、トキワ荘の漫画家がみんな売れっ子になった要因だったのではないか」と思うのです。ひとりでは心が折れそうでも、有望な若手漫画家が集まることで周りの活躍が耳に入ってくる。すると、気力が湧いてくるんですね。しかも、妬(ねた)み嫉(そね)みよりも、前向きに頑張ろうと思えたわけですから。いい刺激しかなかったわけです。
これ、「周りが有望だった」というのがミソ。シェアハウスって周りとしゃべっているだけで、なぜか「やってる気」になるもんで、周りが鳴かず飛ばすだったら「腐ったミカン状態」になりますからね。おそらく日本のどこかには、住人全員が「手は動かさないが夢はやたらと語り合う」という地獄のシェアハウスも存在するはずです。
手塚イズムから変化していくトキワ荘出身者の画風
赤塚不二夫、石森章太郎、藤子不二雄両氏に通ずる要素として「手塚治虫の『新宝島』を読んで漫画家を志した」という共通点があります。初期のトキワ荘系の漫画は、基本的にターゲットを子どもとしており、背景・キャラクターのタッチが、あえて簡潔にわかりやすく描かれているのが特徴です。これは前回の記事でお伝えしたとおり、手塚治虫の影響でもあります。
例えば、藤子.F.不二雄のアシスタントだった、たかや健二の『僕の藤子スタジオ日記』では、複雑な背景を見た藤子・F・不二雄から「僕の絵に合わないからデフォルメしてほしい」と指示があったことを回想しています。
またストーリー的にも、わかりやすく笑えるギャグが多い。舞台もSF的・ヒーロー的なモノが多く、ひと目見て引きつけられます。子どもが思わず夢中になってしまうものが詰まっているわけです。それは、今の時代も変わりません。
ただ、後年になって、トキワ荘系の漫画は少しずつ手塚イズムを脱出し、大人向けの漫画も発表していきます。
例えば、藤子不二雄(A)は1968年、青年向けコミック誌に『黒ィせぇるすまん(のちの『笑ゥせぇるすまん』』を発表しました。また、石森章太郎は1964年ごろから『明星』『平凡』といったティーン女性向けの雑誌で『ガイ・パンチ シリーズ』など、ちょっぴりセクシーで大人っぽいタッチの作品を発表します。赤塚不二夫も1970年代に『めくるめっくワールド(昼の部・夜の部)』という、ものすごくディープで大人なギャグ漫画を描いています。
藤子不二雄(A)は、「最初は手塚先生に憧れたのだから先生のような作品を描こうとしたが、それではいつまでたっても抜けない。それで、自分にしか描けない作品にシフトした」と言います。
この言葉が表すように、トキワ荘の面々は子ども向け漫画からスタートしましたが、1960年代以降はそれぞれの土壌で勝負をするようになるんです。これにより、大人向け漫画の世界も広げていくんですね。