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生き方

伝説のブランド『セーラーズ』三浦静加社長、おニャン子クラブへの衣装提供は「2回断っていた」

SNSでの感想
三浦社長は、セーラーズのトレーナーを着てご登場。明るい笑顔にスタッフ一同、励まされた 撮影/渡邉智裕
目次
  • 実家を失い貧乏生活。少女時代から裁縫にハマる
  • セーラーズをスタートするも約5000万円の持ち逃げ被害に
  • おニャン子クラブへの衣装提供は「断るつもりだった」

「この前、テレビ(『週刊さんまとマツコ』TBS系・2022年3月6日放送)に出たでしょ。さんまちゃんからも、いろいろとツッコまれて。あ、私、さんまちゃんの恋人じゃありませんから(笑)」

 緊張していた取材陣に対して、軽やかにジョークを飛ばす女性の正体は、アパレルブランド『SAILORS(セーラーズ)』の社長・三浦静加さん(69)。セーラーズのファンからは「し-ちゃん」の愛称で親しまれています。

 水兵さんのマークが印象的なセーラーズ。80年代に青春時代を過ごした人なら、一度は憧れたブランドかもしれません。1985年におニャン子クラブの衣装に起用されてから知名度が跳ね上がり、マイケル・ジャクソンも愛用するなど、世界的な人気を誇りました。そのセーラーズを一代にして築きあげたのが、三浦静加さん。彼女は今、69歳。91歳になる実母と、23歳になる脳性まひの娘の介護をしながら、1人でセーラーズの経営をしています。そんな三浦さんが、国民的ブランドを立ち上げるまでをお聞きしました。

実家を失い貧乏生活。少女時代から裁縫にハマる

──子どものころは、どのようなお子さんだったんですか?

「下に弟と妹がいたんです。母は文化服装学院卒だったので、服は手作り。私と妹はデザイン違いのワンピース、弟にはシャツを作ってくれたんです。母は弟と妹を寝かしつけたあとに、ミシンを使って縫っていたので、それをいつも見ていました。小学生のころには、生地を買ってもらって、ゴムを入れたスカートやブラウスを自分で縫っていました。それで近所の子を集めて、自分で作った服でファッションショーをやっていたんです

──幼少期から、ファッションに興味があったのですね。

「はい。家庭科の授業でも、ほかの子が1枚を作り終わるまでの間に2枚は作れたので、家庭科の先生から“クラスの半分の子たちはあなたが教えてあげて”って頼まれるくらいでした。でも、私が小2のときに、父親が保証人となっていた知人に裏切られたために、住んでいた家を取られたんです。そのときはどん底で、まさに“ボンビーガール”でしたね

──大変でしたね……。そのころから、起業することを考えていましたか。

「小学校を卒業するまでド貧乏だったけれど、卒業文集には“洋服屋の女社長になってお金持ちになる”って書きましたからね。明るく過ごせたのは、母が“あなたのお父さんが悪いことをしたわけじゃないから、しーちゃんは太陽の下を、大手を振って歩けるよ”て言ってくれたことが大きかったです

──そこから、どのようにして奮起されたのでしょうか。

初めてお店を構えたのは19歳のとき。5.5坪のジーパン屋でした。親戚がアメ横(東京・上野の商店街『アメヤ横丁』)で、進駐軍の払い下げのジーパンを扱っていたので、そこから仕入れて売っていました。あるとき、古道具屋さんでたまたま見かけた看板に『SAILORS(セーラーズ)』という文字と、水兵姿の男の子が描かれていたんです。“可愛い!”って思って、5800円したけれど衝動的に買いました。お店の人に聞いたら、アメリカの軍艦内で使用されていた、トイレの看板だったみたいで」

──それがセーラーズの始まりなんですね。

「当時、青山学院大学の近くに『ボートハウス』というブランド店があって、そこのトレーナーを求めて行列ができると話題になっていたんです。“ああやって並んで買う人がいるなんて、うらやましい”って思っていました。

 そうしたら、お店に飾っていたセーラーズの看板を見た学生たちが“可愛い、可愛い”って言うんですよ。それを聞いたメーカーの営業の方が“これをプリントしましょうよ”って言ってきて。私が看板を見ながら描き起こしたロゴとセーラーくんのデザインを、トレーナーにプリントして販売したところ、一週間で50枚売れたんです

「普段、トレーナーは1種類ごとに1枚ずつしか注文しない私にとっては大きな挑戦でした」と三浦さん 撮影/渡邉智裕
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