なぜ「Crazy」を2回言っているのか

 そうした二項対立が生まれるのは、「言葉があるからだ」と仏教では語られることが多い。

 ある事象に言葉を置けば、私たちは言葉を通してその事象を認識することができるようになる。しかし、私たちは次第に言葉が仮に置かれたものであることを忘れ、事象ではなく実態のない言葉自体に執着してしまう。その言葉に該当しないものは「そうではないもの」になってしまうのだ。

 言葉が固定観念を生み、固定観念は欲望を生み出す。さらに、欲望が生まれるから、欲望通りにならないことも生まれる。つまり、苦しみとは自分自身が作り出した「差」から生まれる。仏教で「欲を捨てなさい」とか「言葉では悟りは表せない」とかと言われるのはそのためである。

『Crazy Crazy』を聴いているとき、私の脳内では《意味も闇もない夢》とは、「言葉で表せるものでも、言葉で表せないものでもないもの」、つまり「意味と無意味の間」として再生されている。

 というのも、星野源の歌詞の世界観では、よく「意味」の超越が歌われるからだ。

《意味なんか
ないさ暮らしがあるだけ》

──星野源『恋』より

《無駄なことだと思いながらも それでもやるのよ
意味がないさと言われながらも それでも歌うの》

──星野源『日常』より

 つまり、『Crazy Crazy』はBメロで、意味と無意味の二項対立を超越しようとしているのではないだろうか。すると、少し突拍子もなく聴こえていた2番の《欲望を越えろ》は、世界を2つに分けようとする欲望からの解放を願って歌っているように思えてくる。

 疾走感や熱狂とともに、私がいつも胸に焼き付けられているのは、こうした二項対立の超越を目指し、意味という尺度すら越えようとする、極めて達観した星野源の眼差しなのだ。

 こうした観念が頭をぶわぁと駆け抜けたときに、この曲のタイトルが「Crazy」ではなく「Crazy Crazy」である理由が、ふと言葉になってすとんと落ちる瞬間がある。

 おそらく「Crazy」じゃまだ足りない、さらに狂って、狂い続けなければならなかったのだ。「狂う」という行為は、既存の意味から離れるための手段としてよく使われる。でも、それでは意味への「反抗」であり、単なる「無意味」に収まってしまう。星野源が目指しているのは、「意味」でも「無意味」でもない、その「間」なのである。

 だから、一度の狂いでは足らず、すでに《可笑しい頭》をさらに振り続けなければならなかったのかもしれない。無意味の、無意味の、無意味の、無意味の、そのまた無意味。二項対立から離れるためには、永遠に狂い続けなければならない。それが『Crazy Crazy』という題に込められた祈りなんじゃないかと、私の耳はそう言っている。

 僧侶の自分からしたら、欲望と向き合い、無分別の境地を目指そうとするこの曲に、畏敬の念が尽きない。《一秒前は死んだ》として《無常の世界》を生きようとする姿は言わずもがな、仏教の死生観である。もちろん仏教に精通している植木等への敬意を込めた表現が組み込まれていることも承知の上、私はこの『Crazy Crazy』に仏の影を感じてならないのだ。

 星野源の歌詞には、こうした解釈を挟み込むことができる余白と、楽曲間を通底している確かな哲学がある。だからこそ成り立つ、禅問答ならぬ源問答。

 もちろん、こんな言葉による意味づけだって、本来は無意味である。今ここに書き連ねている言葉よりも、私の脳内劇場で繰り広げる疾走劇のほうが、遥かに意味があることなのかもしれない。遠い、遠いぞ、星野源。

 ああ。早く家に帰って、四川風麻婆丼を食べよう。いや、本当はトマトパスタが食べたいのだけど。

(文/稲田ズイキ)

《PROFILE》
稲田ズイキ(いなだ・ずいき)
1992年、京都府久御山町生まれ。月仲山称名寺の副住職。同志社大学法学部を卒業、同大学院法学研究科を中退のち、広告代理店に入社するも1年で退職し、文筆家・編集者として独立する。アーティストたかくらかずきとの共同プロジェクト「浄土開発機構」など、煩悩をテーマに多様な企画を立ち上げる。2020年フリーペーパー『フリースタイルな僧侶たち』の3代目編集長に就任。著書『世界が仏教であふれだす』(集英社、2020年)