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「生きてきた証そのものを、原発事故が奪ってしまった」

 深谷さんは5人きょうだいの長女として生まれた。家は貧しく、中学を出てすぐ働きに出た。看護師になりたかったが、教師から「身体が弱いからあなたが病気になってしまう。同じ白衣だから美容師になりなさい」と言われ、上京して東京の下町の美容院で修業した。

「私は水商売で働く女性の髪を『アップ』にするのが得意だったの」と深谷さん。東京で腕を磨いていたころ、福島県富岡町出身の男性と出会い結婚。いったんは富岡に戻って暮らしたが、「もう一度、美容師がしたい」と思い、単身上京して東京駅前の美容院で働いた。富岡には月1回帰った。東京で4年ほど働いてから福島に戻り、浪江町に自分の店を開店。60歳の手前で店を息子に譲り、今度は富岡町の自宅の敷地内に新しい店を作った。

 そのころの充実した日々を、深谷さんは法廷で語った。

《地域のお客さんを迎えておしゃべりをしながら働いてきました。働くこと、そしてお客さんや友人を自宅に招いて、自家菜園でとれた野菜を使った料理をみんなで食べて、楽しくおしゃべりすることが、私の生きがいでした。身体が動く限りはここで美容師として働き、この生活をこれからもずっと続けていけると思っていました》
 

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美容師として働いていた時代に思いを馳せ、深谷敬子さんは目を細める=5月17日、福島県郡山市、牧内昇平撮影

──美容師の仕事が生きがいだったのですね。

「そう。働いた、働いた。もう働くのはいいやと思って、59歳のとき息子に店を譲って、車を買っていろんなところに行って1か月遊んだの。でも、1か月ですぐつまらなくなっちゃった。それでもう一度、店を作りました。お金を稼ぐというよりも、地域のサロンみたいに使えたらと。みんなで悩みごとを話し合ったり、そういうことがしたかったんです」
 

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 しかし、原発事故が深谷さんのそんな日常を奪った。

《自宅は、事故を起こした福島第一原発から直線距離でおよそ7キロほどのところにあります。地震のときは仕事中で、すぐに戻れると思い、仕事着のまま、ほとんど何も持たずに逃げました。そのときは避難生活が11年以上になるとは全く考えていませんでした。

 その後、体育館や親族の家、旅館や借り上げ住宅、復興公営住宅など、10か所以上を転々としましたが、どこに行っても気の休まるときはありませんでした。今は郡山市に息子が建てた家に同居していますが、それでも私と夫は富岡町に立てた家で、誰にも気兼ねすることなく、のびのびと暮らしていた日々はもう戻ってきません。寂しく、やりきれない思いが胸を離れることはありません。

 自宅もお店も、美容師としての生きがいも、自家菜園も、知人友人とのつながりも、私の生きてきた証そのものを、原発事故が奪ってしまったのです。死ぬまでここで暮らそうと思っていたのに、本当に残念です。一時帰宅のときに、変わり果てた自宅や店を見るたびに、悔しさがこみ上げ、亡くなった夫の仏壇の前で涙を流していました

原発事故から10年ほどたち、荒れ果ててしまった深谷さんの美容院=本人提供