勝ち負けはどうあれ「原発事故のことを忘れてもらっては困る」
──その悔しさがあったから、生業訴訟の原告に加わったんですか?
「最初は裁判なんてよくわからなかったんです。避難先でお友だちになった双葉町(※福島第一原発5・6号機が建つ)のご夫婦から、“なりわいっていうの、ちょっと行ってみない?”と言われてね。一緒に裁判の説明会に行ったんです。結局、このご夫婦は原告になりませんでした。私も何が何だかわからなかったんだけど、そうしたら偶然そこで、昔うちの店で働いていた人に再会したんですよ。その人が“深谷さんも入りなよ”って言うから、“ここに来るとあんたに会えるかもしれないね”という話になって、それで原告団に入ったんですよ」
──それがきっかけで、最高裁で意見陳述するまでになったんですね。
「そうなんです。何か不思議な縁があったんでしょうね。知っている人と会えるなら入ろうかなあ、くらいの気持ちだったんですよ。そのあとで弁護団の人たちの話をよく聞くようになって、この裁判の意味がやっとわかってきたんですね」
最高裁で深谷さんは、自らの半生をつづったあと、こう語った。
《私がこの裁判に加わったのは、賠償のことだけではありません。本当は、原発事故が奪っていった私の人生そのものを返してもらいたいのです。それは無理だというなら、事故がどうして起きたのか、誰の責任なのかをはっきりさせてもらいたいから、裁判に加わったのです。そうでなければ、またいつか同じような原発事故が起こり、私たちと同じような思いをする被害者が生まれてしまうと思います》
──「人生そのものを返してもらいたい」。その言葉が印象的でした。
「ありがとうございます。苦労して、苦労して、波乱の人生だったと思うんです。浪江に店を建てたときは4000万円も借金しましたよ。一生懸命に働いて、暮らしてきました。そうやって生きてきたんです」
──それを最高裁で伝えたかったのですね。
「私だけの気持ちじゃないんですよね。最高裁では、原告のみんなの気持ちを伝えなきゃいけないんです。だから裁判の前は必死になって、一週間くらい何度も読み返して練習しましたよ。読み間違えはいいんですけど、みんなの思いが伝わるようにね。力を入れて読むところとか、静かに読むところとか、そういうのってあるでしょ。裁判官のみなさんに、わかってもらいたくて」
──うまく伝えられました?
「声は大きかったみたい(笑)。次に話す弁護士さんが、“深谷さんが大きな声で話してくれたおかげで、私もしっかり陳述できました”とほめてくれました。いい経験をさせてもらいました」
「生業訴訟」はその名のとおり、福島県内外でそれぞれの生業をもち、平穏な生活を送ってきた市井の人々による裁判だ。原告団長の中島孝さんは、福島県相馬市でスーパーを営む。農家、漁師、車の修理工場経営、浄水器販売……。原告たちはみんな、地域に根を張って暮らしてきた。原発事故によって自分たちの人生や仕事、故郷が奪われ、傷つけられたことに激しく怒っている。
原発事故を起こした「国の法的責任」をめぐる最高裁判決は6月1
(取材・文/ウネリウネラ・牧内昇平)