24歳、萩本欽一さんに言われた言葉

──決断されると、動きは早いんですね?

「そうですね。どこかで思っているからなんでしょうけど。そのタイミングが来たときに、“あ! 今だ”って思ったら、ポンって前へ一歩踏み出しちゃう感じはありますね」

──ご自身の人生を振り返って、大きな転機になったと思われることは?

もちろんストリップ劇場に出るようになったのが、まず大きいですし、それを辞めたあとに受けた、萩本さんの番組『欽きらリン530!!』のオーディションですね。オーディション期間から、番組もいろいろ形を変えながらトータルで3年ぐらいかな。21歳から24歳くらいまでの時間は本当に大きな3年間でした。だから、後々の自分の役者としての考え方にも大きな影響を受けています。ちょっと話が長くなりますけど、そのひとつをお話しますね(笑)。

 3年間お世話になって、最後の番組(『笑うと泣くぞ…ダハ!』)の最終回の収録もこれで終わりというときです。たまたま僕一人だけ控室のモニターで、別のコーナーの収録を見ていたら、ガチャってドアが開いて、萩本さんが入ってきたんです。“タバコくれる?”って言われて。“はい”って渡すと、タバコを吸いながら、じっとモニターを見ているんですよ。だから僕も、一緒に見ているしかないんですけど。だいたい3口くらい吸うと消す人なので、3本くらい吸って、最後に“お前にね、ひとつ足りないものは努力”って言われたんです。“お前ね~、センスだけでやってるから、努力を覚えたらね、すごいことになるよ”って。それでしばらくまた黙って、“うん、以上!”って言って控室を出ていったんですよ。

 それから僕の“努力とは何か?”という模索が始まるんですけど(笑)。僕、努力してない?いや、してるんじゃないの? 努力? 努力?……。その疑問が40歳くらいまでずっとあって……

堀部圭亮さん 撮影/山田智絵

40歳、生瀬勝久さんの姿を見て

──ずっと自問自答されていたんですか?

「はい。野球選手がバットを振る、キャッチボールをする、走る、これは努力じゃないよね。これは練習だから、これは当たり前だなとか。そういう感覚でずっといたんですけど。そんな40歳のときに、これも大きな転機なんですが、三谷幸喜さんの舞台『12人の優しい日本人』に出演することが決まって。僕は12人のキャストの中で年齢的にはちょうど真ん中くらいだったのですが、演劇作品で舞台に出るのは初めてなので、これはもう自分がこの中で一番下だと思って参加しようと思ったんですね。

 なので、稽古場にも絶対に毎回一番に入ろうと思って、稽古開始1時間半前には行くようにしていたんです。でも、あるとき開始時間が変更になっていたのを忘れて、2時間半前に着いてしまったことがあって。仕方なくロビーで本でも読んで待っていようと思ったら、受付の人から、“もういらしているので開いてますよ”と言われて稽古場に行ったら、生瀬(勝久)さんが一人で台詞の練習をされていたんですね。そんなふうに努力をしているところを絶対に見せない人で、稽古場でもほかの役者にちょっかい出しているような感じの方だったので、見てはいけないものを見てしまったなと思ったんですよ。その生瀬さんの姿を見て“ああ~これが努力か”とわかったんです。

 生瀬さんほどの人でも陰で努力されているんだなと。24歳のときに萩本さんに言われたことを40歳になって、生瀬さんに見せてもらったというか。だから、それ以降はどんなにちょっとした台詞のワンシーンだけでも、必ず稽古場を自分で押さえて自主稽古をしますし、考えられることは全部やるようにはしています。それをちょっと時間がないからって、やらなくなったらダメだと思っていて。それが努力だと知ってしまったので、やらないってことは努力をしていないということになるというか。あんまり人に言うことじゃないですけどね(笑)」

──56歳の今も努力を怠らないなんて、すごいです。

ときどき現場で若い役者と話をしていて、“いや、今回は台詞一個だから楽なんですよ~”とか言ってる子を見ると、“それね~、大変だぜ、後々”って思う(笑)