赤字が続くイベント、それでもブレない「面白い人」へのこだわり

──ここからK-PROさんは、本格的にイベントを打ち始めるんですね。

「そうですね。今もそうですけど、若手芸人さんがライブに出るためには事務所のオーディションを勝ち抜かなきゃいけません。落ちてしまった芸人さんは自分たちでバイト代をカンパしてライブをしていたんですよね。“じゃあそのライブを代わりに主催しよう”という気持ちで始めました。

 K-PROを立ち上げたときって、世間には『プロダクションや劇場主催のライブ』と渡辺正行さんの『ラ・ママ新人コント大会』、あとは放送作家さんや芸人さんが自分たちでやる『勉強会ライブ』くらいしかありませんでした。今とは違って『作家やスタッフが個人でライブを主催する』ということが珍しかった時代でしたね

──最初は苦労がありそう……。

「大変でしたね〜。まずK-PROの素性を誰も知らないので、事務所に“この芸人さんをライブに呼びたいんです”と交渉しても、全然取り合ってくれないんです。出演者を集めるのも必死でした。また、ライブシーンも『ボキャブラ天国』(フジテレビ系。1992〜1999年まで放送されたバラエティ番組)以降は“過疎の時代”が続いていたので、集客にも苦労していました

──なるほど。お笑いライブ自体があまり注目されていなかった。

お客さんが10人以下のライブもたくさんありましたね。

 ただ『吉本が東京に劇場をつくった』とか『M-1グランプリが始まった』という出来事が重なって、お笑いライブ界隈の世代交代が起きたり、注目度が上がったりしてきたんですよ」

──なるほど。少しずつライブシーンに追い風が吹いてきた。

「はい。そこから『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)や『エンタの神様』(日本テレビ系)、『爆笑レッドカーペット』(フジテレビ系)などのテレビ番組が人気になり、ちょっとずつ若手芸人ブームが始まったんですよね。

 ライブシーンの若手芸人さんでも、お客さんをたくさん連れてくる方もちらほら現れたりしました。

 それでもずっと赤字でしたね。劇場のレンタル代が数万円なのに、チケット代は500~1000円に設定していたので……。赤字分はスタッフが自腹でバイト代を持ち寄って補填して、月に1回の主催ライブを無理やり運営していました

──すごい。数年間も赤字が続くのにイベントを打ち続けるって、相当なモチベーションがないとできない……。このときのやりがいは、インタビュー第1弾で語っていただいた「ほめられたい」願望に近いんですか?

「いえ、このころは同年代か年下の芸人さんと一緒にやっていたので、“兄さん! ほめて!”っていう感じではなかったですね。それより、“これからの世代が売れていく様を最初から応援できる”というほうが近かったです。

 それと、続けることで少しずつK-PROの認知度が上がってきたのも、モチベーションになりました。だんだんと芸人さん側から、“K-PROさんのライブに出してくださいよ”と言ってもらえるようになったんです。事務所の方もトップクラスの芸人さんを出してくれたりとか。それでライブをやめられなくなった部分もありますね」

──続けるうちに界隈での評価が高まってきたんですね。ただ、「出してくれ」っていう芸人さんを全員採用していたらブレるというか……。ぶっちゃけ、全員が全員おもしろいわけじゃないですよね。そこは選んでいたんですか?

スタッフと最初に決めた約束は、“仲がいいってだけで出すのはやめよう”でした。だから必ずお客さんから愛される『面白い人』を厳選していますね。それと、仲がいい芸人さんだけを集めると、どうしても『身内ノリだけのライブ』になってしまう。すると新しいお客さんも来てくれないので、このあたりはシビアに選んでいました。

 この判断はいま考えたらすごく大きかったです。仲のいい周りの芸人さんだけで出演者を決めてしまっていたら、ここまで続かなかったと思いますね」