今から600年近く前、沖縄県は「琉球王国」と呼ばれ、日本とは異なる独自の文化を育んでいました。
1429年から1879年の450年にわたって存在していた琉球王国の遺産としては、首里城(現在は再建・復興中)ほか、たくさんのグスク(城)や史跡が県内全域に点在していますが、ウチナーンチュ(沖縄の人)の日々の暮らしに欠かせない食文化にも王国の名残りが。今回は、海外の使節団をもてなすために宮廷で作られていたとされる、「琉球菓子」を伝承する人物を紹介します。
琉球王国時代の正統な味、ごまと黒糖から作る「こんぺん」は創業当時から
1935年創業の「南島製菓(なんとうせいか)」は、那覇市の真ん中にあるお菓子屋さん。87年ものあいだ(2022年現在)、沖縄の人たちに愛されてきました。
和菓子に洋菓子、手みやげやお茶請けにしたくなる、たくさんのお菓子がショーケースに並んでいますが、このお店の名物といえば、琉球菓子「こんぺん」(沖縄の言葉で「くんぴん」)。見た目が素朴な焼き饅頭(まんじゅう)で、おやつとしていただくこともありますが、行事の際のマストな1品です。琉球王国時代の高級菓子で、ご先祖様への最高のお供えものという意味合いがあります。
材料に製法に味。創業者である祖父の「こんぺん」を受け継ぎ、老舗の名に恥じない努力を続ける4代目・村吉政人(むらよし・まさと)さんの半生に迫ります。
「僕は南島(なんとう)の日に生まれたんですよ」と笑顔で話し始めた村吉さんの生年月日は、1978年7月10日。なるほど、誕生日が「なんとう」と読め、生まれた日から店主になる運命だったと思わせるエピソードです。
店名の「南島」は琉球諸島を表す縁起のいい言葉ということで、創業者のおじいさま・村吉政能(むらよし・せいのう)さんが「南島風土記」という古文書から引用して名づけたとのこと。
「祖父は那覇市東町にあった『さちまのクヮーシヤー』(標準
現在は数々のお菓子屋がこんぺんを製造していますが、餡の主流はピーナッツ。米軍関係者から入手しやすい材料なので、戦後に広まったとされています。しかし、琉球王国時代の正統なこんぺんに入っていたのは、ごまと黒糖から作る餡。40年来の付き合いのある業者から仕入れたごまと県産黒糖を使うなど、材料も伝統もこだわり続けているのが南島製菓なのです。
そんな歴史ある老舗菓子店を実家に持つ村吉少年は、どんな幼少期を過ごしたのでしょうか。
商売繁盛の陰で過ごした寂しい幼少期、家を離れたくて東京へ
「子どものころの家族の思い出はほとんどありません。商売が忙しくて、子どもにかまう状況ではなかったんでしょうね」と語る村吉さんは、千葉出身であるお母さまの苦労話を続けます。
「当時の沖縄は他県の人に厳しい風潮がありました。そのうえ歴史ある商売一家ですから、家族から母への風当たりは当然、強かった。でも母は諦めることなく、ここでの生活を続けてきたんです。今思えば、母の生きざまから必死に生きることを学んだ気がします」
おじいさまのお菓子作りの確かな腕とアイデアあふれる商才で、南島製菓は大繁盛。県内で初めて、ちんすこう作りを機械化し、首里城をかたどったおみやげ菓子を作るなど新たな挑戦を続けます。また、本土の菓子メーカーの問屋になったり材料販売も始めたりと業務を広げ、会社として大きくなっていったそう。
必然的に村吉家の家業となり、おじいさま亡きあとは弟が2代目、次男が3代目と跡を継いでいきます。長男である村吉さんのお父さまも、店舗運営を支えてきたため家族と触れ合う時間があまりありませんでした。その時期の、つらそうなお母さまの姿も見ていた村吉少年は、寂しさを感じていたのでしょう。
「家にはいたくないという気持ちが膨れあがり、高校卒業後、逃げ出すように東京に行きました」と遠くを見つめます。
上京してアルバイトを探したそうですが、財布に数十円しか入っていない日もあったという村吉さん。アルバイト先の店長からもらった100円で買ったカップ麺1個のみで一日をしのぐなど、今から25年くらい前の出来事とは思えない体験をしたようです。
「しばらくはそんな生活を続けていました。寮完備の飲食店に勤め、昼夜関係なく馬車馬のように働いていたのが、東京で過ごした4年間の思い出です。その後、大阪に住んで1年たったころ、友人からバーを経営しようと誘われ、開店準備に取りかかりました。でも、その最中に実家から連絡があったんですよ」
それはお母さまからで、「職人さんたちの高齢化が進み深刻な状況。帰ってきてほしい」というお願いでした。
当時、中心になってお店を切り盛りしていたのは、どんなに忙しくても孫の村吉さんを気にかけ、愛情を注いでくれたおばあさま。「僕はおばあちゃん子でした」と認める村吉さんは、孝行をしたい一心で家業を継ぐ決意を固め、沖縄に戻ったそうです。