経営難と大切な2人の死。代表就任後に直面した悲劇を乗り越えて

 '02年、南島製菓に入った23歳の村吉さんは一念発起。工場での修業から始めます。当時の先輩職人たちの指導は「見て覚えろ」方式でとても厳しく、ひとりで涙する日も多かったそう。過呼吸の症状が出るほどの大変な日々を過ごした、と振り返ります。

嫌がらせもありました。でも、やめようと思ったことは一度もありません」 

 家業を継ぐ村吉さんの覚悟はそうとう強かったのでしょう。重ねた努力が周囲に認められ、村吉さんは10年後に代表に就任。達成感とうれしさを感じながらさらなる高みを目指し、「より専門的にお菓子作りを学びたい」という思いで、調理師専門学校に入学しました。

 早朝に工場に出て製造業務に取りかかり、時間になると学校へ。そして戻ってきてから、また仕事。そんな日々を続ける中、厳しい経営状態に直面したそうです。

この帽子は創業者であるおじいさまの愛用品。シーサーとともに見守っていてください!

 おじいさまである故・村吉政能さんが地域に根ざしたお菓子屋を開店し、隆盛を極めた南島製菓でしたが、2代目が推進する多角経営の失敗で、7億円の負債を抱えることに。その後、3代目になったとき、建物4つを銀行に取られ負債額は2億円に減ったそう。返済を続けながら、村吉さんが4代目に就きました。そんな状況の中で無情にも、悲しい出来事が襲いかかります。

「 '15年に親友が亡くなりました。幼稚園からの幼なじみで、一緒に東京にいた時期もあります。彼が末期ガンを宣告されてからは、一日の終わりや仕事の合間など、可能な限り見舞いに行きました。最後は僕が病院に来るのを待っていたようで、呼びかける声を聞いた瞬間に息を引き取りました」

 深い信頼で結ばれていた親友を失い悲しみにくれる村吉さんでしたが、2年後にも悲劇が起こりました。

「右腕だと思っていた職人さんが工場で亡くなりました。普段どおり業務の話をして、一瞬、目を離した隙に倒れていたんです。救急車で病院に運びましたが回復せず、心臓にダメージがあったと後から知りました」

 気心知れた親友と頼りにしていた職人さん。身近な2人が自分の目の前で死を迎えた悲しい経験から、「明日死ぬかもしれないと考えるようになりました」と語る村吉さん。

中途半端なことはしないという思いが強まりました。とはいえ、店も家族も守らなければならないので、がむしゃらに突っ走るわけにはいきません。背負うような重荷を感じることなく、今あるもの、受け継いできたものをつなげていこうと考えるようになりました

 精神面でも資金面でもつらかった村吉さんですが、苦難を乗り越えながら老舗店を守り抜く覚悟ができたといいます。そして家族と職人・店員の力を借り、新たな取り組みを始めていきます。

 まずは、おじいさまのもとで働いていたベテラン職人を呼び戻し、専門学校に行っている時間に工場に入ってもらったそう。「こんぺん」をはじめとするお菓子の製造方法やお店のことなど、60年以上前のことを教わる機会にもなり、当時のこだわりや誇りが深まったのではないでしょうか。

「首里城正殿」の字が見える、コーグヮーシ(らくがんの一種)の型。歴史を感じさせるものです

 そして「こんぺん」の新パッケージを開発。お店のイメージカラーであり、琉球王国時代に高貴な色とされていた紫を基調にした袋を作り、個包装して高級感を出しました。また、食べやすいミニサイズを販売したことで、おみやげとしてチョイスしたいお菓子へと進化します。

気品あふれるパッケージに食べやすい一口サイズの「こんぺん」。自分へのごほうびとしてもよさそう!

 '20年2月には、日系航空会社の国内線ファーストクラスで振る舞われるお菓子に選ばれました。

 また、販路拡大を目指し、'21年秋に東京向けの商談会に参加。ですが、「こんぺんはおろか、琉球菓子のことを誰も知らない状況でした」と、悲しい現実にぶち当たったことを明かします。

 失意の中でなんとか1件、契約寸前までこぎつけたそうですが、発送準備をしていたところで、相手との連絡が途絶えてしまったそう。

「セレクトショップにこんぺんを置いてもらう契約を進めていましたが、東京の厳しさを改めて実感しました」と村吉さんは苦笑い。

「このままではダメだ。琉球菓子とお店のブランディングを強化して知名度を上げ、先方から声をかけてもらえるくらいにならなければ」と心に誓ったといいます。悔しさをバネに、気持ちに火がついたのですね。