やめさせようと厳しくされるも、“見いだされているのだ”と食らいつく
──早稲田の劇研は厳しいということで有名ですが、実際にどうでしたか?
「すごかったですよ。大変すぎて白目をむくくらい(笑)。体力づくりのためにマラソンから始まって、サーキットみたいなことをするんですよ。入部したのが夏前だったので、汗だくで部室に帰ってきては、男女関係なく水道の水を頭からジャーってかぶるような、過酷な現場でしたね。“いったい、どこの運動部なんだろう”みたいな(笑)」
──演劇の練習はどのように行われていましたか?
「当時の劇研のルールとして、新入部員はその年の8月に新人試演会をやったあと、本入会するという流れがあったんです。試演会までのあいだは、『エチューダー』と呼ばれる劇研3年目の人間が新人の面倒をみるんですよ。私は6月に劇研の門をたたくのですが、ちょうど新人を訓練している真っ最中でした。みんな4月から稽古を始めているので、自分はそうとう遅い入部だったんですね。それと、劇研が厳しいと言われている理由のひとつに、“縦社会だから”ということがあって……」
──(笑)。はい、よく聞きますね。
「新人試演会の内容がイマイチだと、終わったあとにエチューダーが先輩たちからいろいろと批判されるんです。当時のエチューダーは、遅れて入ってきて、すでに周りと差がある私に対して、(試演会で足を引っ張られたら困るから)“やめさせよう”って思っていたらしいんですよ。だから、ことさら厳しくされる。でも、私はそれを“自分が演劇に向いているから見いだされたんだ”と勘違いしていたので(笑)、どんなつらい目にあっても、食らいついていったんですよ」
──明星さんのガッツと前向きさが伝わってきます。そこから、晴れて劇研の劇団に入られるのですね。
「当時、劇研には『PickWick』という劇団があって、そこから『東京オレンジ』(堺雅人が看板俳優として活躍した劇団)が分離したんです。私のエチューダーとなってくれたのは、『東京オレンジ』主宰の横山さん(演出家の横山仁一)でした。でも、私はその2つではなく、ちょうど旗揚げをするタイミングだった『双数姉妹』(小池竹見主宰・1990年創設)に参加しました。東京オレンジとは、お互いの公演を手伝い合ったし、合同公演もありましたし、そういう意味ではすごく近い存在でしたね」
厳しい劇研で看板女優としてやってこられた理由は?
──劇研時代の活動で印象に残っていることはありますか?
「劇研では“とにかくテンションを高く持って舞台に上がれ”って言われるんです。即興演劇が主だったので、テンションを上げて真っ白になって、その場でどれだけ面白いことを言えるかが重要。だから、訓練として、一発芸を連発させられて(笑)。本番に生きるからと、何度も何度も“そうじゃない”、“まだ違う”って言われながら、何十回も一発芸をやらされる。そんな現場でした」
──まさに『双数姉妹』では、エチュードと呼ばれる即興劇から作品を作る点が特徴でしたが、のちにこの劇団以外で学んだお芝居とでは、どういう部分が違っていましたか?
「双数姉妹では、(主宰の)小池竹見さんが次の作品のテーマを持ってきて、それを俳優たちがエチュードで立ち上げていきながら台本に書き起こす、という流れがメインでした。どうしても、即興でどう面白いことをやるかとか、いかに変な人物をやるかという部分に注力しがちだったので、特定の人物をじっくり演じるっていうことは、やってこなかった。なので外部の公演に出ると“どうしようかな”って、ちょっと苦労する時期がありましたね」
──演技方法の違いが、1998年に劇団を退団された原因だったりされるのでしょうか。
「エチュードは時に、ただ台本を演じるだけでは行き得ないところまで表現することができる。だから、展開の膨らみがものすごくありましたし、とても面白い取り組みだと思っています。でも当時はやっぱり、がっつり台本がある舞台をやりたいなっていう気持ちもあったので、退団することを決めましたね」
──明星さんは、『双数姉妹』の看板女優として約8年間、在籍されていました。厳しいと言われる劇研で演劇を続けられ、また、看板女優と謳(うた)われるほど輝けた理由は何だと思いますか?
「自分の中に“諦めない”という精神と、“いじめられても、いじめにすら気づかず前向きにとらえる”っていう性分があるおかげでしょうか。私、どこに行っても“自分は残るな……”っていう感じがあって。例えば以前、英語を勉強しようと学校に通ったら、ものすごく恐ろしい先生だったんですよ。最初は20人いた生徒が5人しか残らなかったけれど、やっぱり私はちゃんと残っていたんですよね。
だから、厳しい方が性に合っているというか(笑)。逆に生ぬるいところだと、時間がもったいないなと思ってしまう。振り返れば、専門学校も退屈でやめましたが、“厳しいから”、“苦しいから”という理由で何かをやめたことは、今まで一度もなかったと思う。それが私の特徴なのかもしれません」