上京後、事務所が倒産! メンバー全員でバイト生活

──地元・札幌でのバンド活動が軌道に乗ってきたから、上京されたのでしょうか。

「札幌でワンマンやっても300人ぐらいは入るようになっていたけれど、ずっとお客さんや対バンするバンドも同じで頭打ちになっていたら、先に上京している友達が、“やっぱり東京はすごいよ。対戦相手がたくさんいる”って言うんだよね」

──(笑)。バンドがいっぱいいるってことですよね。

そう。俺が25歳だから'91年だったかな。“札幌にいる仲間たちは、絶対に東京のバンドに負けてないから上京したほうがいい”って言われて、“そんなに面白いんだったら行くか”って勢いで出てきた。周りが上京して、だんだん友達がいなくなってきちゃったからね。俺の弟やブッチャーズ(注:bloodthirsty butchers。オルタナティブロックの伝説的バンド)とか、周り含めたらもう70、80人とか出てきちゃった。札幌の音楽シーンがなくなっちゃったよ(笑)。SLANGのKOちゃん(注:老舗ライブハウス『札幌KLUB COUNTER ACTION』のオーナー)だけ残してきた。俺らが帰る場所がなかったら困るからね」

──バンド活動をするために上京されて、驚いたことはありましたか?

「東京に来てびっくりしたのは、バンドマンがみんな高学歴だったことだよね。北海道から大挙して上京してきたけれど、みんな本当にろくでもないやつばかりだからね。大学出ているのにバンドやって、親が怒らないのかな? って(笑)。俺が親だったら許さないけどね」

──北海道出身のバンドは、怒髪天もそうですが独自の音楽性が強いミュージシャンが多いと思いますが、その点についてはどう思いますか?

やっぱり原始的っていうか、いわゆるエモい部分っていう気持ちから、バンド組んでるやつばっかりだから。気持ちのほうが先走っているっていうか。そういうもんだと、ずっと思ってきているし、今でもやっぱりそれが一番美しいと思っている。ブレーキというか、自分を制御するもののタガが外れたときに、ロックのミラクルが起こると思う

増子直純さん 撮影/吉岡竜紀

──怒髪天は、メジャーデビューはすぐに決まったんですか?

実は上京する時にすでに事務所に入る話もあったんだよね。最初は事務所から“地下にスタジオがあるマンションに2人ずつ住んでもらう”って言われていたのに、次の週に社長が夜逃げだもんね。事務所がなくなっちゃった。しょうがないから俺が部屋を借りて、メンバー4人でそこに住んだ。引っ越せるまでみんなで働いてね

──大変な状況だと思いますが、それでもバンド活動は続けていたんですよね。

バイトはずっとしていたからね。結局、40歳過ぎて、メンバー全員がバイトを辞められたかな。でも金を稼ぐことが目的なわけじゃないからね。バンドでいい曲を作って、自分の満足のいくライブをやるってことが一番の目的だから。バンドマンの中には、働きながらバンドをやることを負い目に感じている人もいるみたいだけれど、俺はそういうのはないね」

活動休止中は実演販売にリングアナを経験。そこから再デビューへ

──1991年にメジャーデビューされましたが、1996年から3年間、活動休止されています。当時はどうして休止の決断をしたのですか?

なんか思っていたのと違うなっていうのが大きかったね。世間から求められてないことにイライラしてくるというか。“なんで俺の音楽がわかんないんだ”みたいなフラストレーションの方が大きくなっていっていたよね

──活動休止中は、さまざまな仕事をされたそうですが。

「包丁の実演販売にプロレスのリングアナなどいろいろやったけれど、雑貨屋の店長は大変だったね。ディスプレイっていう能力が全然、自分になくてびっくり(笑)。実演販売は当時、現場仕事の時に仲よくしていた警備員さんのおじさんが、後に包丁の実演販売の師匠になる人と仲がよくて、“しゃべりのほうが向いてるよ”って言うからやってみようかなって始めた。会いに行ったら、“最後の弟子だ”って言って迎え入れてくれて

──実演販売の仕事から学んだことはありましたか?

やってみて、物を売ることの本質がわかったというか。自分がやっぱり本当にいいと思っているものじゃなきゃどんなにうまい口上でも、売れないよね。そこに気持ちがこもっていないと。バンドも結局、同じなんだなって気づいた。本当に自分でいいと思ってないと、やっぱり人にちゃんと伝わらない

増子直純さん 撮影/吉岡竜紀

──怒髪天の音楽を表す「JAPANESE R&E(リズム&演歌)」とは、どのような音楽でしょうか。

演歌の神髄というか日本人の心というかね。失恋したら北に行くみたいな(笑)、日本人の共通認識や古きよき概念という感じだね。日本で暮らす同世代の人たちが感じるものかな」