また、時代劇スターだった長谷川一夫先生が演出の指導にいらしていたのですが、私は宝塚に在籍しているあいだに、長谷川先生の相手役として帝国劇場でご一緒していたこともあり、たいへん可愛がっていただいた思い出があります

 ベルばらと言えば、ファンの方々がすぐ思い起こす有名なシーンのひとつに、“今宵一夜”がありますよね。オスカルがアンドレに「今宵一夜、アンドレ・グランディエの妻と呼ばれたいのです」と告白する。その場面のとき、長谷川先生がオスカルとアンドレ用に考えた、伝説的なポーズがあるんです。歌舞伎のような型を重視したもので、2人とも身体を反らして触れ合っており、現実的にはほぼありえない不自然な姿勢なのですが、客席から見るとこれほど美しいシーンはない。宝塚ならではの“夢”を表現しています。

『ベルサイユのばら』上演時の思い出を語る安奈さんの表情はとても生き生きとしていました 撮影/吉岡竜紀

ファンからは熱烈コールのほか“過激な洗礼”も。入団のきっかけは両親の希望

 『ベルサイユのばら』を上演し始めたころ、まだ世間的には「宝塚って何?」というような時代でしたが、『ベルばら』が地方巡業で各地を回ったことで宝塚を知った、という方も多く、 また、NHKで舞台を放送したことで、一気に日本全国に広まりましたね。

 あっという間にファンの方が増えていき、全国各地、どこに行っても超満員でした。もちろん、ありがたいことではありましたが、劇団員はみんな満員電車に揺られ、荷物を持って次の劇場に向かい、毎日のように公演していましたから、ヘトヘトでしたよ。地方巡業のスケジュール表をもらったら、巻き紙みたいになっていて、その公演数の多さに気が遠くなったこともありました。

 このころには「第1期ベルばらブーム」が来ていたので、楽屋口には熱狂的なファンの方々が集まっていて、怖いくらいでした(笑)。今では、ファンのみなさんは整然と並んでスターを待っていますが、当時はそういう秩序もありませんでした。楽屋から出た瞬間、「キャー!」という歓声とともに群がってくるので、掃除のおばさんに変装して出ていったりしていましたね。ホテルにもファンの方々が押し寄せてきて、下から「顔を見せて!」と叫ばれたりと、たいへんな騒ぎでした。

 愛してくれる方々がいる一方で、ファンレターの中にカミソリが入っていたり、新聞の文字を切り貼りし「生身の人間がオスカルをやるな」と書かれた、劇画ファンからの脅迫めいた手紙が届いたりもしました。

 そんな過激な経験もした宝塚人生ですが、もともと両親が宝塚のファンで、子どものころから家族で観に行っていたんです。娯楽があまりなかった時代ですから、そのころ住んでいた大阪・箕面から30分ほど阪急電車に揺られ、宝塚劇場に行くのは一大イベントで、観劇の日が決まるとカレンダーに丸をつけるほどワクワクしていました

 母も幼少期から宝塚に入ることを希望していたのですが、親に反対されて諦めた、という事情もあり、わが家では「女の子が生まれたら宝塚に入れる」と両親のあいだで決められていたんです

 家族みんなが“押せ押せムード”で、バレエとピアノを習い、受験準備は小学校4年生くらいから始めました。絵が好きだったので、(宝塚に行くよりも)絵画の勉強をしたい、と思ったこともあったのですが、今となっては「親の言うことを聞いて宝塚を受けてよかった」と感謝しています。「1回受けてダメだったら、あとはない」と言われていましたが、中学で宝塚音楽学校を受験して、一発合格できました。

「つらいこともありましたが、宝塚でたくさん学ばせていただきました」としみじみ 撮影/吉岡竜紀