付き合っている彼女からベッドに火をつけられたことがある。
当時、僕はラジオ局の下っ端ADであり、1日や2日の徹夜などは当たり前の職場で奴隷のように働いていた。その時期に付き合っていた女の子は、誰がどう見てもヤバイやつだった。初対面の時から自分と母親の間の確執と異常な愛について朝までノンストップで喋り倒すような子で、乙女座B型一人っ子、暴力悪口当たり前のハイパーサイコガールである。その子となんだかんだで付き合うことになり、僕の家で半同棲のような生活をしていた。
ある日、仕事で疲弊して帰宅すると彼女が暇そうにして待っていた。映画でも観ようかということになりパソコンを開いたのだが、仕事でクタクタになっていた僕はハッキリ言って映画なんてどれでもよかった。それに明日の起床時間も早い。映画を選んでいる時間すら惜しく、彼女をそれなりに満足させて、とっとと寝てしまいたかったのである。
「『私は貝になりたい』でいいんじゃない?」
Amazon Primeの画面を開いて最初に目についた映画だった。再生ボタンを押す。特に彼女の返事は待たなかった。
映画が始まり、ボーッと画面を見つめる。再生のシークバーをそれとなくいじってみると、この映画が2時間20分あることに気づく。しまった。普通の映画より長い。事前に映画の長さを調べなかった自分の怠惰を悔いていると、ある異変に気がついた。なぜか部屋中に黒い煙が立ち込めてきたのである。
「火事だ」
瞬時にそう思った。咄嗟(とっさ)に彼女の姿を探す。どこにもいない。いつからだ? そういえば観る映画の提案をしてから、彼女はどこかに消えていた。
煙はどんどん部屋の中に充満してくる。僕は慌てて部屋の扉を開けて廊下に出た。どうやら風呂場から煙が発生しているようだ。風呂場を覗くと彼女が立っていた。無言だった。煙が立ち込めていて表情はよく見えない。
彼女の足元では何かが燃えていた。黒煙に咳き込みながらよく観察すると、それはマフラーだった。去年のクリスマスにその子が編んで僕にプレゼントしてくれたものだ。そんな大切なものが今ではボロボロの消し炭のようになっていた。彼女の顔を見る。鬼の形相でこちらを睨(にら)みつけていた。なるほど。僕が付き合っているこの人は、何らかの理由で風呂場に行き、自分で編んだマフラーに火をつけたのである。
僕はこんな状況に遭遇した時「できるだけリアクションを取らない」という対応を取ることにしている。なぜならこのクレイジーな行動は「僕を困らせること」が目的であり、僕の動揺はサイコガールの望んでいるものそのものだからである。動揺という甘い蜜を摂取すると彼女たちは味を占め、次回も同じ行動、もしくはそれ以上のクレイジー活動を行ってくる可能性が高い。なのでこういった場合は、できるだけ平静を装い行動すべきだと思っている。
僕はできるだけノーリアクションで、できるだけ自然な所作で、マフラーに水をかけた。まるでお花に水をあげるかのように。彼女からの反応は特になかったが、それでいい。僕はマフラーを(少し申し訳なさそうに)ゴミ箱に入れると、部屋に戻った。
この出来事は、もしかすると都合のいいハプニングだったかもしれない。何しろ映画を観るというイベントは中止になりそうなのである。こんな状況で再度ふたりで映画を観ようという雰囲気にはならないだろう。案の定、彼女は部屋に戻ってこない。不幸中の幸いである。立腹の原因は気が落ち着いた明日にでも聞けばいい。今日のところは寝てしまおう。と思い、ベッドに横になった。
5分後、寝転んでいる僕の後ろに彼女が来た気配を感じた。身の危険を一瞬感じたが、気が荒れるとナイフ類を振り回す彼女への対策として、家中の刃物は処分してあるので刺される心配はない。その代わり家で料理はできなくなったし、紙も切れなくなったが、死ぬよりは大分マシである。
今日のところはバーニングマフラーで気が済んだのだろう。僕は目を瞑(つむ)り、眠ることにした。ところが、
カチッ
背中越しに異様な音がした。それもかなり近い。カチッ? 何の音だろう。
どこか聞き覚えのあるその音が「ライターの着火音」であることに気づいたその瞬間、背中に痛みが走った。
「熱ッ!!!!!!!!!」
あまりの熱さに飛び起きてベッドの上に立ち上がる。ベッドのシーツ全体が燃えて、一面が火の海になっていた。
「えっ? 何!?!??!?」
『クレイジー活動にはできるだけ冷静に対処を』の標語を掲げる僕も、さすがに驚嘆した声を出してしまった。彼女は鬼の形相でこちらを睨みつけている。炎はどんどん燃え広がり、ベッド全体を覆っていった。今、足を置いている場所にも侵食しつつあり、足の踏み場がなくなろうとしている。足の踏み場がないという言葉は、ゴミ屋敷だけに使う言葉ではないことをこの時に知った。僕はそれでもできるだけリアクションを取るまいと、無表情で事態を収束させることに努めた。毛布の両端を手と足で広げ、四つん這いになりながら炎に被せる。さながらムササビのような姿で鎮火活動を行った。
なんとか鎮火が終わると、ベッドもまた黒く消し炭のようになってしまった。ハァハァと息を切らす僕。睨みつけている彼女。PCの画面から中居くんが「どうして!!」と叫んでいた。
長く沈黙を守っていた彼女がポツリと呟いた。
「『私は貝になりたい』、別に観たくなかった」
大切な思い出のマフラーと長年使ってきたベッドが炭と化す事態を招いた理由は「気に入らない映画を勝手に選んだから」だった。
ほぼほぼバタフライエフェクトのような予測困難な顛末(てんまつ)である。再現性がなさすぎて学習もできやしない。僕は肩で息をしながら「普通に言って……」と伝えた。
その子とは5年ほど付き合い結局振られてしまったが、今でも部屋に残る黒ずんだベッドを見るたびにこの出来事を思い出す。
あの時のサイコガールに謝りたい。ごめんよ、気に入らない映画を選んじゃって。次回があれば『ベティ・ブルー』を一緒に観よう。
(文/わるい本田、編集/福アニー)
【Profile】
●わるい本田
1989年生まれ。YouTubeチャンネル「おませちゃんブラザーズ」の出演と編集を担当。早稲田大学を三留し中退、その後ラジオの放送作家になるも放送事故を連発し退社し、今に至る。誰にも怒られない生き方を探して奔走中。