星野源が歌う、たった一つのもの
まずはじめに思い出されるのは、星野源がしきりに「意味」を越えようとしている姿だ。
《なにも聞きとれない 君に僕は
どんなことが歌えるだろう
意味を越えて》
──星野源『知らない』より
《意味の外へ連れてって
そのわからないを認めて》
──星野源『夢の外へ』より
この他にも、星野源の歌詞には「意味」というフレーズが頻出する。「クソ喰らえと愛してるが同じ意味になる」などの相反する言葉の対比は、まさにそのフレーズ自体が「“意味”の“意味”」を解体していると言えるのではないだろうか。意味なんて、無意味なのだと。だとすれば、「言ってる意味わかる?」のフレーズは星野源なりのジョークなのかもしれない。角度がエッジィーすぎるけど。
これまでの星野源の音楽では、意味を越えることへの望みを歌っていたように思える。しかし、『Same Thing』ではもうすでに意味を越えた先にいる。その地点から後ろを振り返り、意味そのものに向き合っているように私は感じた。この曲を通して、いつもよりちょっと遠くに星野源がいるように感じたのは、そのためだと思う。
そうした「意味の外」と同時に、星野源の音楽が目指しているのは「間」である。第2回の連載でも書いたが、すなわち、それは二項対立のない世界である。
《自分だけ見えるものと
大勢で見る世界の
どちらが嘘か選べばいい
君はどちらをゆく
僕は真ん中をゆく》
──星野源『夢の外へ』より
《等しいものは 遥か上さ
谷を渡れ 欲望を越えろ》
《意味も闇もない夢を見せて》
──星野源『Crazy Crazy』より
《殺してやりたい 人はいるけれど
君だって同じだろ 嘘つくなよ
長生きしてほしい 人もいるんだよ
ほんとだよ同じだろ 嘘つくなよ》
──星野源『バイト』より
善と悪。清と濁。嘘と真。私たちは何かを語るときに、対立や比較なしではものを語ることができない。でも、なにかと比較されて与えられたその言葉は、あくまで仮のものである。本当にそれが善なのか悪なのか、言葉の殻を外した姿を知ることはできない。
星野源の音楽は、言葉の二項対立の限界を知り、そうではない世界へ眼差しが向けられているように思える。『Same Thing』で、あえて相反する言葉を並べ、挑発的とも言えるくらいに「同じだ」と歌う光景からは、言葉の外面から離れ、言葉そのものの“源”に立つ星野源の姿が浮かび上がってくる。すべては二つにして一つなのだと。
じゃあ、確かなたった一つのもの、それは一体何でどこにあるというのだろうか。その在処が歌われているのが『ばらばら』なのではないか、と私は思う。
《本物はあなた わたしは偽物》
《あの世界とこの世界
重なりあったところに
たったひとつのものが
あるんだ》
──星野源『ばらばら』より
詳しくは第1回の連載で書いたが、『ばらばら』では「あなたのなかのわたしが本物であり、わたしが思うわたしは偽物である」という世界観が歌われているように私は感じる。すなわち、この世のすべてのものが、互いに存在の根拠を共有しながら生きている“繋がり”そのものが主題なのだ。
意味も言葉もなくなった世界で、残るのは、“もの”と“もの”との間にある“繋がり”だけである。わたしはわたしによってわたしになるのではなく、あなたによって初めてわたしになり、あなたはわたしによって初めてあなたになるのだ。
つまり、『Same Thing』においては、「雨の日」は「晴れの日」があるから、初めて「雨の日」になれるということになる。雨がなければ晴れは存在しない。雨と晴れは根源で一つに繋がっている。だからこそ、雨の日と晴れの日は「同じ意味」なのだと。「クソ喰らえ」と「愛してる」、「最悪の神」と「優しい天使」、「Fuck you」と「愛」も、「僕」からしたら、同じ一つのものなのだ。
『Same Thing』は不思議な曲だ。耳を澄ますと尖(とが)った形の言葉が並んでいて、表面だけをなぞれば、心が波立っていく。でも、優しいのだ。というより、優しいとか優しくないとか、そういう次元ではない懐の大きさを同時に感じる。
《どっちも同じことなんだ
それで大丈夫 それでいい》
それはきっと、言葉の表層的なルールを壊し、意味を越えた先に歌が置かれているからだろう。それを聴くためには、私は私自身のあらゆる意味を脱ぎ去って、むきだしにならないといけない。意味を越えた場所にいる「歌い手」と「聞き手」の間には、ただ純粋な「私」と「あなた」の関係性だけが存在する。
《とりあえずカラオケでも行かない?
私がビルで 貴方がスカーレット
このヤバい歌を君に聴かせたいんだ
めちゃくちゃになろうよ》
唐突に思えるこの詞。でも、なぜかいつも言葉にならないものが込み上がってくるのは、私の一番近い場所で歌が歌われているように感じるからである。ほんのほのかな一瞬ではあるが、私も星野源とともに意味の向こう側に立っている感覚がするのだ。