2019年のこと。思いつきで向かったインドに到着して一週間が過ぎた頃、私は行き先も定かではない列車に揺られ、液晶に何も映らないスマートフォンの電源ボタンを連打していた。
どこもかしこもインド人
朝、ハリドワールという町に到着した。
前日まで滞在していたリシュケシュと大きく違うのが、インド人以外の姿が見えないことである。
ヨガの聖地として世界中から人が集まるリシュケシュと比較して、ハリドワールは国外の観光客からさほど認知されていない。ただ、インド人にとってはガンジス川沿いにあるヒンドゥー教の聖地として特別な場所になっているようだ。
橋の上から沐浴(もくよく)する彼らを眺めていた私は、見渡す限り唯一の外国人としてその町にいることを少々心細く感じていた。
インド人の友達、シン
「あれ、日本人ですか?」
日本語でそう話しかけてきた彼は、「シン」という名の眼鏡をかけた勤勉そうな青年だった。
インド南部からハリドワールへはるばるやって来たそうだ。
「家族への土産にガンジス川の水をくんだボトルが一本余っているのであげます」と、唐突に手渡される。
本当にいらなかったが、そこまで神聖なものをぞんざいに扱うこともできず、その場ではありがたく受け取ることにした。
「日本人と友達になれて嬉しい」と話す彼は非常に親切だった。
美味しいビリヤニを一緒に食べ、こちらがリクエストしたラッシーもオススメのお店でご馳走してくれた。
打ち解けていくなかで、彼が父親と経営する会社はトヨタと取引があり、その社員と親しくなるうちに日本語も堪能になったということがわかった。
結局、彼と朝から夕方まで話し続け、酒を飲もうという話になった。
しかし、ここはヒンドゥー教の聖地であり、宗教上よろしくないとされる酒を表立って扱う店はなさそうである。
「僕に任せてほしい」と彼は笑顔で耳打ちした。
どう酒を入手するのかを尋ねると、「サドゥーに言えば何でも手に入るから大丈夫」と言う。
サドゥーとはヒンドゥー教で俗世を捨てた修行者のことであるが、シンいわくハリドワールのような人が集まるエリアでは、世俗を断つことなく、むしろ目立つ容姿を利用しプッシャーとして金儲けをする「ビジネスサドゥー」が多くいるという話だった。
彼らが持っているワインはとても質がいいらしい。インドで2000ルピー(当時3000円ほど)が相場ということなので、シンと私で1000ルピーずつを出し合って交渉に臨むこととなった。
1000ルピーをシンに預け、あまり目立たぬよう橋の下で待てと指示を受ける。
橋の下の階段に腰掛け、インドに来てから観光客ばかりとつるんでいたことに気づく。
シンはインド人でないと知らない色々なことを教えてくれる。
縄を体にくくりつけて川に飛び込んでいく両腕のない少年が、川に投げ込まれた小銭を口に含み、岸で縄を持つ別の少年に引きずり上げられていた。
インドでは、彼と同様に体の一部を失った人々を頻繁に目にする。
彼らの多くが、物乞いとしての生涯を全うするよう、幼少期に親に四肢を切断されたり、目を失明させられたりしているそうだ。
そんな胸が痛む現実も、シンから話を聞くまではまったく知らなかった。
奇遇なことに彼も今夜、私と同じく列車でバラナシに向かうそうだ。向こうでも色々な話をしてくれるだろう。
シンが戻ってきたら、そろそろ駅に向かったほうがいいかもしれない。
そんなことを考えているうちに、重大なことに気づいた。
「シンが戻ってこない」
ワインを買いに行ってからすでに30分が経過している。5分もあれば買って戻って来られる距離のはずだ。
彼の助言通り、私は橋の下から動かなかった。サドゥーが座り込んでいるのは川のこちら側だが、もし彼が橋から対岸へ渡ったとしても完全な死角である。
ラッシーを飲んでいるときの「私の写真は絶対に撮らないで」という彼の言葉が脳裏をよぎる。
「1000ルピー持ち逃げされた」
すべてを理解したと同時にシンを追いかけようと、すかさず立ち上がる。
「コロコロコロ……」
何かが膝の上から階段へ転がり落ち、ガンジス川へそのまま落下した。
「ヤバイ、iPhoneだ」
立て続けに起きた最悪の事態に、一瞬理解が遅れた。
こんな形で聖なる川へ入ることになるなんて……。
川底から拾い上げたときには、iPhoneは何も反応しなかった。
絶望のさなかに
1000ルピーなんてたかだか1500円程度だ。金銭的な問題はどうでもよかった。ただただやるせない気持ちでいっぱいだった。
友人ができて喜んでいたのなんて自分だけだったのだ。ずっと金をくすねるタイミングをうかがっていたのだろう。
30ルピーでラッシーを奢って1000ルピーをもらえるのなら、まさに「海老で鯛を釣る」といったところだ。
もしかしたら交渉に時間がかかっているだけなのかもしれないという淡い期待も虚しく、時間が経過していく。
そんなことより、この旅を続行できるのだろうか。
紙の用意でもしてくれば別だったが、すべての情報はiPhoneに入っていた。
予約した宿も列車も、日本へ帰る飛行機も、知る手段が何もない。文明の利器の脆さを痛感する。
駅に向かうと、予約したデリー行きの列車の発車時刻だった。
警報のような発車ベルが鳴り響く。
列車の予約番号を確認する術もなく、急いで飛び乗る。
「インドの列車が定刻通りに発車するのだろうか?」
そう思ったときにはドアが閉まり、大きく揺れながら列車が動き始めた。
それからの6時間、液晶が真っ暗なスマートフォンの電源ボタンをひたすらに連打していた。しかし、うんともすんとも言わない。
不安な気持ちをよそに、列車は予定通りデリーへ到着した。
群がってくるタクシーの運転手を拒絶しかけて、一人では何もできない状況であったと我に返る。
宿で降ろしてもらい、空いていたベッドに横になった。
タクシー運転手からは、この宿は特別な場所で、パソコンを貸してくれると聞いていた。
ここへ連れて来てもらうために追加料金まで払ったのに、フロントでは当然のようにパソコンの貸し出しなどないと断られた。
自力では何もできない。かと言ってこの国では誰も信じられない。
起きたら空港に行って、帰りの飛行機を早められないか相談しようと考えていた。
本当はバラナシに行きたかった。この旅で一番の目的地だったのに。
心身共に疲れ切っていた。今は、とにかく寝ていたかった。
泥のように眠っていると、あっという間に朝になり、アラームが鳴った。
ん……アラームが?
とっさに飛び起きてアラームを止めてもなお、絶望のさなかに起きた奇跡を信じられなかった。
「iPhoneが復活している!!」
一晩の間にiPhoneに入ったガンジス川の水が乾燥したのだろうか。何にせよ、この旅を続行できるのだ。
さっそく調べてみると、列車が出るまで思いのほか時間がない。
前日に底まで落ちていた分、一層の高揚を感じながら宿を後にし、この旅の最後の目的地、バラナシへと向かった。
(文/池田ビッグベイビー、編集/福アニー)
【Profile】
●池田ビッグベイビー
1991年生まれ、YouTubeチャンネル「おませちゃんブラザーズ」のメンバー。185cmという巨体を武器に大学卒業後はネズミ駆除の仕事に就くも、YouTuberへ転身。「池田ショセフ」名義で音楽活動も行う。