都心から日の出町まで通う日々。ついに移住して住みびらき図書館へ

 こうして東京の奥多摩地域・日の出町に作った「女ま館」は、都心から電車とバスを乗り継いで2時間くらいかかる場所。仲間の多くは平日、都心で仕事をしているため、休日を利用して週に1日、日の出町に通いながら、空き家を掃除してはレイアウトを変え、持ち寄ったまんがをひたすら運び入れる日々を送る。運営の発起人である中野さん・大井さん夫婦も、当時は世田谷区に住んでおり、毎週末、電車で日の出町に通っていたそう。

築100年の建物で、とにかくボロかったから掃除したり、壊れた箇所もいろいろとあったりしたので修理して。持ち主が残した謎の不用品が多いから、いくらやっても片づかなくて。ちょっとした骨董品とかも出てきてね。それこそお宝鑑定に出せそうなくらいの品もあったんです。まんがを運び入れることよりも、片づけをするほうが必死でしたね」と、当時のことを振り返る大井さん。

 それにしても、この重労働を仕事ではなく趣味で行うとは、相当にまんがへの深い愛がないと続かないのでは……。そうなのだ。ここまでは仲間内でわいわいと楽しく、ボランティアで行ってきたのだが、次第に皆の足が遠のいていった。中野さん・大井さんはその様子に責任を感じ、「これは言い出しっぺの私たちがやりきらないといけない」と、とうとう夫婦ふたりだけの運営体制に切り替えることを決意する。

 それと同時に、夫婦は世田谷から日の出へと自宅を移すことにした。思い切った決断だったと思うが、仕事は問題なかったのか、不安には思わなかったかと聞くと、中野さんと大井さんは「文明の発達によって、私たちの生活は救われたんです」と笑う。

 ふたりを救ったのは、インターネットの発達だった。フリーランスで出版・制作の仕事をしていた中野さん・大井さんは、当時は“都心のクライアントがメインだから、引っ越すことで仕事に困るかな”と不安も覚えていたが、ネットでのやり取りで多くの仕事が完結できたことで、結果的にはさほど影響はなかったという。

 こうして背中を押してくれる要素がたくさんあったことで、2001年末に夫婦で移住。「女ま館」に住みながら図書館として、仲間や知人に限定公開する暮らしがはじまった。

 2002年8月には入館料無料で週1回の一般公開をスタート。その直後に夫婦に子どもが生まれ、「女ま館」で育てながら暮らす日々だったそう。

娘はね、このまんがの中にまみれて育ったと言ってもいいくらいです。公開していない時はまんがの閲覧室に蚊帳を吊(つ)って、よく娘をお昼寝させていたものです」(中野さん)。娘さんはまさに筋金入りのまんがっ子。なんとも羨ましい育ち方である。

取材班を温かく迎えてくれた館主の大井夏代さん(左)、中野純さん(右)夫婦

事件発生! 「女ま館」が立ち退きを迫られる

 日々、住みびらきをして過ごしていた2007年のある日のこと。それは突然の出来事だった。「女ま館」として使っていた借家が、地主の事情でなんと競売にかかってしまう。これによって立ち退きを余儀なくされてしまったのだという。

「突然のことでしたよね、本当に。私たちは何も知らなくて。ある日、競売のことを知らされたんです」(大井さん)

 それにしても、中野さんと大井さんの少女まんがを巻き込んだ人生には、どうしてこうもハプニングがもれなくついてくるのだろうか。

私たちもまさかこんなことになるとは思いませんでしたけど、どうにもできないわけで……。出ていくしか手段がないことがわかったんです。でも、その時にはすでに蔵書が3万冊もあり、これをどこへ持っていけばいいの? いったいどうすればいいんだ! っていう状況でした」(中野さん)

 捨てるに捨てられない、でも家からは出ていかなくちゃいけない──窮地に立たされた中野さん・大井さん夫婦は、ここでもやっぱり「いや、どこか場所を移してでも続けなくてはいけない」と決意する。

 3万冊の漫画と幼子を抱えて、“家なき子”状態。普通に考えて、まずは漫画を手放してくれ、と周りは止めにかかるだろう。まんがとともにホームレスはきついです……。

そうそう、やっぱり親や親戚などからは、想定どおり反対されたんですよ。“いい機会だから、もうやめなさい”と。でも私たちはやめるつもりは全くなかった。やめろと言われればもっともっと燃えるのですよ。だって、みんなの大切なまんがを引き受けてしまっているんです。それ以上に、可愛いまんがたちを手放すわけにはいかない。もうこれは私たちの使命だというような気持ちでいました」(大井さん)