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芸能

おいでやす小田の奇跡的な“強運”とピュアな“お笑い愛”。『M-1』前から確かにあった予兆

SNSでの感想
大阪時代からの“テレビに出る”という夢を叶えた今、次なる野望は──?! 撮影/高梨俊浩
目次
  • 魔が差して──大学をやめてNSCに入りました
  • 松本さんに認めてもらえた。その事実が僕を支えてくれました
  • ピン芸人の僕は“漫才主体の劇場”であおりを受けた
  • 『M-1』決勝の前からすでにあった“予兆”

 '16年から'20年まで、5年連続で『R-1ぐらんぷり』(現・R-1グランプリ/関西テレビ系)のファイナリストに名を連ねた、ピン芸人・おいでやす小田さん。近年は、『M-1グランプリ2020』(テレビ朝日系)に、こがけんさんとの即席ユニット「おいでやすこが」として出場。激戦の末に準優勝を果たしたことでも知られています。

 そんな小田さんは、現在バラエティだけでなくドラマにも出演。M-1から2年がたち“賞レースファイナリスト”という肩書が薄れても、なお活動の幅を広げています。その活躍の裏には、どんな“戦略”や“運命”が隠れているのでしょうか……? インタビュー記事前編となる今回は、小田さんが芸人を志してから、'20年のM-1準優勝にいたるまでのサクセスストーリーを伺い、“ピン芸人・おいでやす小田”の源泉をたどります。

今回お話を伺った、おいでやす小田さん 撮影/高梨俊浩
◇   ◇   ◇

魔が差して──大学をやめてNSCに入りました

──小田さんは、どういった経緯でお笑い芸人を目指したのでしょうか?

100パーセント、ダウンタウンさんの影響です。僕は子どものころ、4つ上の姉から影響を受けることが多かったんですけど当時、姉が好きだったのが、関西ローカルで放送されていたダウンタウンさんの番組だったんです。例えば、『かざあなダウンタウン』『生生生生ダウンタウン』とか。それを一緒に見るようになって、自然とハマっていきました。小学校6年生くらいのころやったと思います」

──出身は関西圏(京都)ですし、お笑いは身近にあったでしょうね。

「まあそうですね。でも、ダウンタウンさんの番組以外はあんまり見ていなかったんです。同級生は『すんげー! Best10』(※同時期に関西で放送されていた人気バラエティ)とかも見ていたみたいですけど、僕はそっちの話にはあんまり入られへん感じでした。もう、ダウンタウンさんばっかりでしたね

──ダウンタウンさんのどんなところがお好きだったんですか?

「最近気づいたことなんですけど、僕ダウンタウンさんが好きなのはもちろんなんですけど、ダウンタウンファミリーが大好きなんですよ。浜田(雅功)さんがお父さん、松本(人志)さんがお母さんで、今田(耕司)さんと東野(幸治)さんと木村(祐一)さんたちが子どもで……っていう、関係性とかバランスとか、世界観が大好きやったんです。このメンバーが出ている番組は、夢中になって見ていました」

──その結果、自分でも芸人になろうと。

「はい。高校に入ったあたりから考えるようになりました。けど、今から考えたらただの絵空事でしたね。高3の冬に、同級生と卒業旅行でキャンプに行ったんですけど、そこでみんなで寝転がって星を見る時間があって。そのときに初めて芸人になった自分をリアルに想像したんですけど、とんでもない恐怖が襲いかかってきたんですよ。生活できる保証がまったくない仕事なのに、その覚悟がなかったんでしょうね。“こんなにヤワな精神では無理やろう”と思ったんで、とりあえず大学進学を選択しました。ただ結局、大学は3年でやめてNSCに入るんですけど

──なぜ、中退してまでNSCに?

「こればっかりは、魔が差したとしかいえないです。大学の午前の授業を終えて昼休みにひとりで公園に行ったら、ふと“もうイヤ! 大学行きたくない!”ってなったんですよ。で、そのまま午後の授業をサボって、大阪にある難波のNSCにパンフレットを取りに行って。家に帰って親に言いました」

──完全に衝動ですね。親御さんは何といっていましたか?

母親は“卒業してからでええのに”と言っていましたけど、反対はされなかったです。親父も結構厳しい人やったんですけど、すんなり“いいよ”と。まあ、嫌がっていましたけどね。“後期の学費、払ったとこやのに……”って。申し訳ないことをしたなと思いました

──ともあれ、翌春に大阪のNSCに入学したんですね。

「そうです。半年くらいあったので、その間バイトをしてNSCに通うお金を貯めてから入学しました。ダウンタウンさんに憧れていたんで、NSCで相方を探して、漫才……というか、『ガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ系)のフリートークのようなネタができたらいいなと思っていました。当時はまだ、自分の力量がわかっていなかったから、漫才もフリートークも大喜利も、何でもできると思っていました」

──「何でもできる」という考えが崩れたのは、いつごろですか?

「NSCを卒業して、西森(現モンスターエンジン・西森洋一)とコンビを組んだころですかね。西森のボケの発想力とか、面白さとか雰囲気を見て、“初めて自分より面白い人に出会った”と衝撃を受けたんです。ツッコミになったのもこのころですね」

──ただ、その後もコンビを組んでは解散、を繰り返して最終的にピン芸人の道を選びます。それはどういうきっかけだったのでしょう?

「コンビを組むと、相方の嫌なところばっかり目につくんですよ。西森の次に、奥重っていう男(現吉本新喜劇・奥重敦史)と4年半コンビを組んでいましたけど、ネタのときの立ち居振る舞いとか雰囲気が気になってしょうがなかった。だから、(奥重との)解散のタイミングでピンになろう決めたんです。誰かとおったら、いろんなことをその人のせいにして一生終えてしまう。だったら、自分で全部責任を取れるピン芸人になろうと思ったんです

ピンで売れなかったら、芸人を辞めようと考えていた 撮影/高梨俊浩
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